03月12日(火)、曇時々雨。せっかくあたりの気温が上がってきたのに、雨が降るととたんに下がる。寒い。午前中、バスである会議に出かけた。バス内では集中して本が読めるので、私にとっては快適な時間。『台湾侵攻に巻き込まれる日本』(半田滋著、あけび書房)を100ページまで読んだ。
『時をかける台湾Y字路』(3章 タイムカプセル、ひらく)からの引用を続ける。陳澄波の絵がどうしても気になる。
「(前回に続く)実際、台湾総督在任期は1926年から28年のわずか2年だったものの、上山はその間、原住民族の暮らしや文化に高い関心を持って原住民族の暮らす山々を熱心に視察して回っていたという。上山を研究している児玉識(しき)氏は、アニミズムと祖霊信仰を大切にする台湾の原住民族に上山は日本人が失ってしまった精神の原型をみていたのではないかという。
また、ある台湾の知人は、もし上山があと2年先まで、霧社事件が起こった1930年まで総督として在任していたならば、毒ガスといった非人道的な化学兵器を総督府が原住民族に向けることはなかったのではないかともらした。
この絵の作者である陳澄波(1895―1947)は、台湾南部の嘉義(ジヤーイー)出身で、東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び台湾人として初めて帝展に入賞、日本画壇の巨匠・梅原龍三郎や藤島武二に認められるが、日本の美術界で台湾人として成功することに限界を感じ、上海に渡った。
太平洋戦争の激化とともに台湾に戻り、郷土の美しい風景を描いた作品をたくさん残したが、どの作品にも近代化と伝統のあいだで引き裂かれる故郷・台湾への愛惜が塗りこめられている。
戦後、日本が去った後に台湾を接収した国民党政府の下で勃発し、約1万8000人もの人々が犠牲になったといわれる二・二八事件に巻き込まれ、52歳のとき嘉義駅の前で銃殺された。
(写真)上山満之進の子孫と・上山忠男氏と陳澄波の長男・陳重光氏の交流の様子。前掲書より。
戒厳令下の台湾で、その存在はずっと伏せられてきたものの、民主化につれて再評価が進み、この悲劇も手伝って、香港の国際オークションで5億円前後の高値がついたこともある。
そんな高額で売買される画家の絵が地方の小さな図書館でみつかったものだから、発見当初はてんやわんやの大騒ぎとなり、作品はいつのまにか福岡の東アジア美術館に貸し出されてしまう。しかし、台湾との歴史をつなぐ郷土の財産を取り戻そうとの市民の声の高まりにより、