02月20日(火)、曇時々小雨。18日(日)、19日(月)、最高気温が19.7℃、19.8℃。2月としては、観測史上、最高だとか。まるで、初夏。異常な気象だ。暖かいだけなら、生活は快適なのだが、自然や農業への影響などは甚大なのではないか。予想通り、梅や桜の開花が早まる。雪割草やカタクリなどもそう。
「八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を引用して、紹介を続ける。
「銅像は與一の希望、校友会の了解、組合の許可を得て、堰堤築造の起点になった珊瑚潭を見下ろすには格好の場所に置かれ、昭和6年7月31日、與一への贈呈除幕式が行われた。
この時、置かれた場所は、現在銅像が置かれている場所より、1メートル程前の場所である。それも、台座を付けず、一本の鉄棒で、直接地面に固定された。
このような置き方をした銅像も珍しい。遠くから見ると、まさに與一その人が、地面に腰を下ろし、考え事をしているように見える。
與一の銅像は、この後、数奇な運命をたどることになる。
與一の銅像が、烏山頭に届けられた2カ月後後、昭和6年9月、日本は旧満州において事件を起こし、日中15年戦争の口火が切られた。やがて、日本は大陸で泥沼に足を突っ込み、身動きできなくなり、昭和16年、ついに世界を相手に無謀な戦争を始めた。
ミッドウエイ、ガダルカナル島の敗北を境にして守勢に回り、敗け戦となった。物資、特に鉄や銅を中心とした軍需物資が不足してくると、軍の命令で金属の供出が行なわれ始めた。
特に、銅の供出が叫ばれ、日本中の銅像や銅製品が、次から次へと製錬所に運び込まれ溶かされ始めた。校友会のシンボルであった與一の銅像も、例外ではなく、昭和19年には鉄棒を切断されて供出され、烏山頭からその姿を消してしまった。」(前掲書、p236〜237)
(写真)上:17日(土)午前中、バス停から見た空。下:何度も掲載するが、この銅像、與一そのものに見える。