02月21日(水)曇時々小雨。例年の気候に戻った。が、ここ2、3日、初夏のようだっただけに、寒さを感じる。辺りは、暗い。気分も晴れない。
昨日、西総合スポーツセンターへ行ったら、いつも走っているトリムコースが使用中止と張り紙がしてあった。予想はしていたが、今度はどこを走ろうか、歩こうか、と思案する。「震災復興」のためには、しかたがない面はあるのだが。
(写真)ここが「罹災証明書」などを発行するための相談窓口になっている。
「八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を引用して、紹介を続ける。
「戦争は、昭和20年8月15日、日本の敗戦によって幕を閉じた。
ポツダム宣言によって、日本は台湾を放棄した。大陸から台湾駐防第70軍が、続いて台湾省主席に任命された陳儀が来台し接収を行った。
台湾に居住していた日本人は、三万名余りの留用者以外は、直ちに引き揚げが実施され、昭和21年の2月28日には、その第一便が基隆港を後にした。
台湾でも、戦後の混乱は続いていた。日本統治下の台湾では、台湾人や原住民族の人々は、皇民化運動により日本人として、日本の軍隊に身を投じ、日本が勝つことを信じて活躍してきたのである。
日本が敗れた時、台湾人の多くは日本人と共に泣いた。支配者である日本人が敗け、被支配者である自分たちが勝利を収めた側にいることを実感として受け止めるには、時間を要したほどであった。
かつては、敵として戦っていた同民族の中華民国軍の接収を受け、台湾の統治者だった日本人が、ことごとく台湾を去って行き事態は一変した。当然、嘉南大?組合も接収されたが、受権者が台湾人であったため、そのまま台湾の人々に引き継がれ、名称も嘉南農田水利協会と変えられただけだった。
そんな中で、與一の銅像は、行方のわからないまま、すでに溶かされてこの世にないないものと考えられていた。ところが、與一の銅像が、日本人の少年によって偶然にも発見されたのである。(続く)」(前掲書、p237〜238)
にほんブログ村