04月05日(金)、晴。朝から青空が広がっている。我が家近くの桜で、毎年一番早く咲く桜の木の芽がふくらんできたので、開花は間近。
大鳥圭介の話を続ける。
大鳥の家は経済的にも文化の面でも、ゆとりがあり、大鳥は日々、祖父の薫陶を受けて育ち、少年時代から漢文を読み、村では神童の呼び声が高かった、という。
明治17年(1884)創刊の「神戸又新(ゆうしん)日報」は明治35年に「吾県の精華」と題して大鳥圭介を10回シリーズで掲載している。そこには、冒頭に「兵庫県は面積が広いだけに人物にも富んで居る。この済々たる多士の中最も名声の響いて居るのは大鳥圭介である」とある。
(写真)大鳥圭介生家と資料館。前掲書より。今も現存する。
そして、こんな記述も見られる。
「敏捷で記憶の善(よ)いので祖父は其愛を彼一身に集めて暫(しばら)くも其傍を離さぬ位であった。家に居っては読書を好み、祖父や父母に能(よ)く仕えたが、外へ出ては腕白で乱暴で、背の低い一寸法師ではあるが、己よりも年の多い背も高い子供等に雑(まじ)って其の大将となって采配を振って居た。之は御医者様、御師匠様の子だと言う門閥の観念が子供等の頭にも幾分響いて、彼が大将と仰がる資格を作ったに相違ないが、併し子供の中で一番怜悧で学問もあり、才智もあり、自然と人を統御する質が具わって居た事が大原因である。」(前掲書、p3)
この「リーダー」となってしまう資質は、その後の人生を左右していく。これは箱館戦争の隊長に選ばれてしまう、榎本武揚と似たところがある。大鳥も、いろんなところで、本人は断っても、隊長の役をすることが多かった。
大鳥の生まれた細念(さいねん)村について触れておこう。
「細念村は赤穂藩領ではもっとも辺鄙なところだった。赤穂の奥に岩木7ヶ村という山に囲まれた集落があり、その一番奥が細念村だった。戸数わずかに12、3というからさびしげな村落だった。
大鳥の生家は最近まで残っていた。いまは取り壊され、そこ...