04月10日(水)、晴。近所の桜も満開を迎えた。昨年より1週間くらい遅いのだそうだ。青空が広がっているのだが、花見には肌寒い。花冷え。
『大鳥圭介』(星亮一著)から、大鳥圭介の「適塾」入学までの経緯をみる。
「(先祖代々の医業を継ぐよう、細念村から6里(24キロ)ほど離れた加里屋(かりや)町の医師中島意庵(なかじまいあん)に息子を預けた。)これからが本格的な医者の修行であった。ところが本人はさらさら医者になる気はない。祖父のように漢学の教師を目指していた。そんな大鳥を見て中島は、「儒者などいけない。西洋学をやったらよかろう」と物理学、植物学、病理学、解剖書などの書物を貸し与えた。
大鳥は読んでみて驚いた。万物のことがすっかり出ている。本を読むのは得意なので、西洋学の条理がよくわかった。
「これまでつまらんことに骨をおって無駄なことをした」
大鳥はきれいさっぱり漢学に見切りをつけた。
大鳥のすごいところはここからである。西洋学を学ぶには、横文字の原書を読まなければならない。大鳥圭介20歳、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門することになる。
あくまでも医学の勉強である。必ず細念村に帰り家業の医院を継ぐと父親に約束し、大坂に向かった。嘉永5年(1852)の春だった。
伴忠康著『適塾をめぐる人々』によると、嘉永5年の適塾入門者は34人で、長州の大村益次郎は弘化3年に入門、嘉永3年に退塾していた。福沢諭吉は安政2年(1855)に大鳥と入れ違いに入門していた。大鳥の自伝には福沢と一緒だったとあるので、何カ月間か顔を合わせていたと思われる。
大鳥は適塾時代を自伝で、ほぼこう回想している。(次回に続く)」(前掲書、p8〜9)
(写真)近所で満開となった桜。