02月13日(火)、快晴。これ以上ないようないい天気。真っ青な空が広がっている。角田山の「雪割草」の開花が気になる。まだ、見に行けない。去年の写真を検索してみる。掲載の雪割草の写真は、昨年の3月19日のもの。お間違いなきよう。新聞休刊日。新聞や広告などを束ねて捨てる日にしている。貴重な1日。
「八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を引用して、紹介したい。
周りの三面の石板には、工事期間中に死亡した組合従業員やその家族134名の名前が、日本人、台湾人の別なく死亡順に刻まれている。
※前回写真掲載した「烏山頭ダムガイドブック(中日版)」によると、「日本人、台湾人の別なく死亡順」は、八田技師の強い主張だった、という(引用者)。
ダムの竣工式と通水式を終えて一段落した與一は、嘉南大?組合を解職となったが、部下の再就職口を求めて奔走した。「八田技師が推薦するのなら、間違いない」と、どこでも優遇してくれた。それもそのはずで、これだけの大工事に従事し成し遂げた者は、ほとんどが優秀な技術を身につけていたからである。
行き先が決まった仲間が、家族が、歯が抜けるように烏山頭を後にしはじめた。
與一も、8月には、住み慣れた烏山頭から台北へ帰ることになった。
校友会の人々は、去り行く與一の功績をたたえるために、記念品として銅像を贈ることを決めた。
校友会の中から、発起人総代として8人の者が選ばれた。当然ながら「どのような銅像にしたらよいか」という話になった。
普通、記念的銅像といえば、立像か胸像である。そこで、校友会の総代も、立像か胸像にする積もりで與一の所へ相談に行った。
與一は、銅像を贈りたいという話に感激し感謝しながらも、
「堰堤は、私だけが造ったのではない。気持ちはありがたいが……」
しかし、総代の人々は、
「校友会のシンボルとして、私たち、全従業員の心の糧として作りたいのです。これは、所長のためというより、私たち、全従業員のためなのです」(続く)」(前掲書、p231〜232)
(写真)昨年3月19日に撮影した角田山の雪割草。