04月25日(木)、雨のち曇のち晴。気温は、高めという予報だが。多言語習得、細々とではあるが、続けている。NHKラジオの語学講座を聞くのが中心だが、オンラインの教室や直接受講(face to face)の教室も、引き続きある大学でとっている。
このブログ村に参加し、優れたブログを発信続けている「うさぎ」さんがいつか発信していたように、「その言語の会話力はその言語をしゃべらないと向上しない?」という言葉が印象に残っている。
だから、オンラインの「プライベートレッスン(20分)」を月8回とっている。これが、今のところ、学習のモチベーションを維持するために、有効だと思っている。他の言語もこういう教室を探したいと思う。
『大鳥圭介』(星亮一著)から、引用を続ける。この引用には、歴史上の重要人物が多数登場するのだが、いちいち解説をつけると先に進まないので、付けない。ご容赦を。
「尼崎藩や徳島藩に仕官(小見出し)
江川塾にいる大鳥は、尼崎藩から家来になるようにと勧誘された。生地の細念村は尼崎藩の領地である。安政4年(1857)11月、八人扶持で尼崎藩に召し抱えられ、江戸藩邸に出かけて講義する。
江戸に出て6年になる。細念村の医師の倅が士分に取り立てられるとあって両親も大喜びだったが、長い間の親不孝である。この辺で両親の喜ぶ顔も見たいと、大鳥は故郷に錦を飾ることにした。大鳥が槍持ちの男を連れて岩木谷に入ると、大鳥の帰国は触れが回っていて、皆、街道に出て出世を喜んでくれた。
大鳥が江戸に戻ると、今度は徳島藩からも招かれた。日本人の好奇心は大変なものだった。江川塾は鷹揚なところで、出張講義もすべて認めてくれた。
大鳥の日々は講義だけでなく、兵書や砲術の本の翻訳で多忙だった。翻訳をすると活字にする必要がある。当時の印刷は木版だが、木版は作るのに手間暇がかかる。大鳥は、亜鉛と錫を合わせて鋳物にして活字を造ることを編み出した。活字を組み合わせれば、迅速に印刷が可能である。インクも自分で作った。「長崎でやっている印刷は西洋から器械を取り寄せたものだ。国産は私がはじめてだ」と大鳥は自慢した。
写真技術もマスターした。オランダの本を読んでいたら「テクノロジー」という学問があった。そこに紙漉(かみすき)のことや硫酸のこと、さらに写真を写すことが書いてあった。そこから仕掛けを学んだ。あるとき、徳島藩の屋敷に出かけると、家老がどうしても写真を写してくれと言う。そこで早速、撮影を行うと、ぼんやりではあったが、撮影に成功した。(前掲書、p17〜18)
(写真)引用で、大鳥が写真撮影に成功した、とあるが、大鳥の肖像写真は、ジョン万次郎がアメリカから持ち帰った写真技術で撮影したものらしい。