04月24日(水)、雨。強い風。寒い。寒さが戻ってきた。安田交流センターで「2024 出前交流会in阿賀野」(年金者組合新潟県本部女性部主催)という興味深いイベントがあったので、参加。師匠の車に同乗させてもらった。130名以上?の参加があった。情報いっぱい。頭が飽和状態となり、珍しく疲れた。
安田は、特別に風が強い地域だそうで、午後の安田瓦ロード散策は大変だった。吉田東伍記念博物館にも初めて入った。午前中の須田一彦氏の講演「『満蒙開拓団』―その国策とわが一家の足跡」については、後日触れたい。
『大鳥圭介』(星亮一著)から、引用を続ける。
「(前回からの続き)担庵は安政2年には腹心の柏木総蔵(そうぞう)、望月大象(だいぞう)らを長崎に派遣し、着弾と同時に破裂するガラナート砲の研究に着手した。またパンの製造も始めた。
ご飯は腐ってしまうが、パンは腐らない。戦場の保存食として最適だった。人物も多彩だった。松岡磐吉(いわきち)、肥田浜五郎、小野友五郎、吉岡勇平、赤松大三郎ら咸臨丸での訪米組を多く輩出していた。
これらの人材がなぜ明治維新を担う人材にならなかったのかは、ひとえに幕政改革が遅れ、薩長との戦いに敗れたせいだった。」(前掲書、p17)
大鳥の兵学へ興味をもったきっかけをもっと詳しく知りたいのだが、昨日の引用では、「日本の仮想敵国は諸外国であり、これにいかに対抗するかであった。大鳥が兵学を学ぼうとした根本発想は、まさにここにあった。」とある。江川塾の影響が大きいことは間違いない。さらに、こんな世界情勢をみることも必要か。
「18世紀後半、 西洋の列国は植民地の拡大を競っていた。清国との貿易関係で朝貢制度(貿易のために朝廷への貢ぎ物)の打破と厳しい貿易制度撤廃を名目に大英帝国は1840年に「アヘン戦争」を起こし、大国の清国はもろくもたった二年で屈服し結ばれた「不平等条約」で半植民地化となった。
大国清国のわずか二年での敗北という事実に日本は驚愕、しかもその矛先が次に向くのは我が国であると確信した。今の武器・装備では清国の二の前となるのは明白、どうする日本・・・・・そのとき時代の寵児は現れたのである。」(「高島流砲術本陣ホームページ」より)