03月01日(金)、俄雨。午後3時過ぎに、陽が差してきたので、ジョギングができると思って準備していたら、大雨となった。こういう時は、諦めた方がよい。
八田與一もその家族も台北に住んだことがある。與一は、総督府の土木課の職員だったわけだから、烏山頭に住む前は、総督府の近くに居を構えていたのではないか。『台湾Y字路』を読んで、なおさら知りたくなった。誰か知っている人がいたら、教えてほしい。
この著書を読むと、日本が台湾を植民地化したために、いろんな影響があったことがわかる。例えば、地名もそうだ。こんな部分がある。
「「老街入り口のY字路」
日本時代以前のこのあたりは柴竹圍庄(サーアウイツン)という名前である。柴竹圍とは、いまの大安森林公園(ダーアンセンリンゴンユエン)および建国南路(ジエングオナンルー)・信義路(シンインルー)交差点付近にあった林・蘇・周という三氏の暮らす集落が、竹や樹木に取り囲まれていたことに由来する。
(写真)著者による、地図イラストレーションが随所に出てくる。
総統府までまっすぐつながる台北の目抜き通り仁愛路(レンアイルー)に幸安国小(シンアングオシャオ)という公立の小学校がある。1933(昭和8)年に幸(さいわい)小学校(正式名称:台北州幸尋常高等小学校)として創立された歴史ある学校で、「幸」という字は日本時代のこのあたりの町名幸町(さいわいちょう)からとられた。
東京都千代田区にある内幸町(うちさいわいちょう)は、江戸城のお堀にかかっていた幸橋(さいわいばし)の内側というので付けられたそうだが、ここ幸町にも日本時代には人工河川があった。その名も「堀川(ほりかわ)」という。
堀川といえば真っ先に思い出すのが京都の堀川通で、鴨川と合流する河川が暗渠化して道路になったものだが、現在は晴明(せいめい)神社で知られる一条戻り橋付近に水流が復活し、部分開渠となっている。台北の堀川のほうも戦後に暗渠化され、現在は台湾大学の前から前から北の基隆河(ジールオンホー)に向かってまっすぐのびる幹線・新生南路(シンシエンナンルー)(松江路(ソンジャンルー))となった。
1948年の写真をみれば、現在の仁愛路と堀川が交差するところに橋がかけられているが、それが「幸橋」という名前だったかは定かでない。(続く)」(