04月19日(金)、曇のち晴。穀雨(穀物を育てる雨の意)。黄砂がひどい。いつも見える山々が黄砂で霞んで見えない。
(写真)あちこちで咲き始めたチューリップ。
われわれの年代では、京唄子と鳳啓助の夫婦(めおと)漫才が人気で、よく笑った。地元では、こんな話が伝わっているという。
「オオトリケイスケ」の生誕地と聞いて「鳳啓助?」と思っていたという観光客は、鳳啓助が大鳥圭介の生き方に感銘を受けて名前を芸名に頂いたということを聞き、「上郡出身でない鳳啓助の博学ぶりに驚き、改めて大鳥圭介の大きさを感じた」と話した。『大鳥圭介』(星亮一著)から、引用を続ける。
「江川塾(小見出し)
江川塾の長屋は実に広かった。それまで、それまで、大阪の適塾は虱と一緒の雑魚寝だったし、坪井塾も似たようなものだった。
坪井塾には越前橋本左内(はしもとさない)のすぐ下の弟綱三郎(つなさぶろう)がいた。この男も越前藩の藩医の出だった。兄佐内は眉目秀麗(びもくしゅうれい)、弁舌さわやか、幕末の論客の一人だった。惜しむらくは安政の大獄に連座、獄死した。
大鳥は一人で行くのも何かと不便なので、綱三郎を江川塾に誘った。二つ返事で一緒に行くことになった。坪井塾と違って、屋敷があまりにも広いので、綱三郎はびっくりした。
「大変、立派な長屋です。それは良いのですが、何もなくては困ります」
というので、江川塾から5両借りて、米櫃(こめびつ)、手桶(ておけ)、流しなどを古道具屋で買ってきた。飯炊きも必要である。一人、男を雇った。にわかに大将になった気分である。3人で一緒に飯を食べた。
ここの塾は学生も多彩で、薩摩の西郷隆盛、大山巌(いわお)、伊東祐麿(すけまろ)らも砲術の勉強に来ていた。