03月13日(水)、曇時々雨。寒い日が続く。風や雨で寒さが増す。「Heat shock(ヒートショック)=温度の急変で受けるからだの衝撃。冷凍庫で作業した後、急に真夏の炎天下に出たときや、暖房の効いた部屋から寒い廊下に出たときなどに起こる。脈拍や血圧が上昇して、心筋梗塞や脳卒中を引き起こす要因となりうる。」(デジタル大辞泉)
最近、歳を重ねたせいか、「暖房の効いた部屋から寒い廊下に出たとき」嫌な気分になる。昔は、そんなでもなかったのに。冬の寒い時期は、どこか暖かいところに脱出したい、と思う。
『時をかける台湾Y字路』の引用は、12章「描かれたY字路 台湾アイデンテテイーを探して」に飛ぶ。
「(前半略)同じことは、戦前の台湾美術界でも起こった。絵を志す多くの台湾の学生たちが東京美術学校(現・東京藝術大学)で学び、帝展にも出典し、次々と台湾独特の風景をモチーフに作品を発表した。
1927年には台展(台湾美術展覧会)が開催される。台展の目的は、台湾の文化的な特色を発掘したり創造したりすることにあった。そのためにもっとも効果的なのが台湾のローカル色を前面に押し出すことで、まちの風景や原住民族、バナナの樹など南国的な植生のある庭、独特の山岳風景、文化の多様性を感じさせる淡水のまちといったモチーフは非常に好まれた。
一方で、台湾で好まれた「台湾ローカル色」は日本の植民地政策上での思惑とも表裏一体だった。台湾の国家学術機構である中央研究院の顔娟英(イエンジュエンイン)氏は論考のなかで、「島民に生活娯楽を提供する以外に、台湾の風土、人情の特色を消化する作品を発表して、日本乃至世界に向けて台湾の治績宣揚し、台湾の地位を高めること、これがつまり台湾展開設の根本目的だったのである」といっている。つまり、日本の台湾統治が文化的な側面でもうまくいっていることを対外的に知らせるために、台展ははじまったということだ。(写真)陳澄波の『嘉義の街はづれ』、この著書より。
台湾を代表する油絵画家のひとり、陳澄波の作品には「日本の領有下で近代化してしていく台湾」と「故郷の懐かしい伝統的な風景」とを対比させた風景が繰り返し描かれる。たとえば、1926年に第7回帝展(帝国美術展覧会)に出品された『嘉義の街はづれ』という作品をみれば、嘉義の街の一角が掘り返され、そこを流れていた水路が今まさに暗渠化され道路インフラが整えられている最中である。
既に整えられた道路には、順番に電信柱が立ち並び始めている。その脇には台湾の伝統的な?南(みんなん)建築の屋根が天井に向かって反り返り、天秤棒を担いだ人が歩いている。身近な街はずれを舞台に、台湾の近代化とひきかえに懐かしい風景が次々と失われていく今この瞬間が閉じ込められ、そこには植民地下で創作を続ける画家の引き裂かれるようなアイデンテイテイーへの悲哀が、塗りこめられているように思える。」(p203〜204)
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