01月30日(火)、曇時々晴れ間。ジョギングにはもってこいの日だったのに、家庭の「雑事」が多数あり、できなかった。明日も、晴れ間がありそうなので、期待する。
八田與一と外代樹の死、日本の歴史上、重要な人物を二人も失った、という感じが強い。生きながらえていれば、日台の歴史にもっと多くの足跡を残したに違いない。
外代樹の死は、大洋丸の遭難により夫を失ったことと、日本の敗戦によって、台湾(烏山頭)を去らねばならないというショックがあった。外代樹は、台湾を自分の永住の地と考えていた。外代樹の死に、先の日本の「国策の誤り」による悲劇が見える。
自死の場面では、絶句する。言葉もない。ショックだけがいつまでも残る。『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』の「15章 外代樹の死」からの引用を続ける。
「直ちに組合の人たちに伝えられ、総出で水路を探し始めたが発見できない。そのうち風が強くなり、夜になると台風が来て風雨が激しくなり、水路の水も増えたため、やむなく捜索は打ち切られた。
翌日は台風も過ぎ、雨も上がったため、バルブを閉じ放水を中止して隈なく水路を探したところ、6キロメートルもの下流から変わり果てた外代樹の遺体が発見された。嘉南の人々は、悲しみに慟哭した。
八田技師の悲報に接してから、まだ3年しか経っていないのに、また夫人の死である。人々は涙に暮れつつ、外代樹の遺体を日本人墓地で荼毘に付した。遺骨は少しだけ日本に持ち帰り、残りは烏山頭に埋葬することにした。
夫の築いた烏山頭ダムのほとりで、夫と共に眠ってほしいという嘉南の人たちの温かい心遣いだった。
この悲報は敗戦と引き揚げのどさくさに紛れて、世間にはほとんど知られなかった。しかし、嘉南の人々は、誰が嘉南大?(かなんたいしゅう)の生みの親であるかを決して忘れなかった。
(写真)八田技師の銅像の前で語る嘉南の人々。前掲書より。