04月16日(火)、曇時々雨。昨日の最高気温が29.1℃。4月にして、花見の時期にして、この暑さである。昨日は、そんなに暑いという実感はなかったのだが、この暑さが続くかと思うとびっくりしてしまう。日本は、春と秋がなくなって2季になったという人もいる、とか。
『大鳥圭介』(星亮一著)から、大鳥圭介の「坪井塾」での様子をみる。ジョン万次郎は江川太郎左衛門の配下となって、江川の屋敷に住むことになるのだが、後でまた触れたい。
「江戸坪井塾
江戸に出てみると、世情は混沌としていた。
この年、アメリカのペリー提督が軍艦7隻を率いて再来日、黒船を巡って世論は湧き上がっていた。幕府は久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取り、それを諸大名に示し、意見を問うた。
ロシアの軍艦も長崎に再来航、和親条約の締結を求めた。もはや鎖国は通用しなかった。幕府は開国を決断、日米和親条約の締結を手始めに、各国と和親条約を締結、開国に向けて大きく舵を切った。
原書が読めるというので大鳥は早速、坪井塾の塾長に抜擢された。これまで毛嫌いされていた西洋学はにわかに注目を集め、西洋諸国の国防はどうなっているのか、大砲、小銃の性能はどうか、西洋の築城術はどうかなどと、坪井塾に問い合わせが舞い込むようになった。
大鳥は適塾の時代、土佐藩や熊本藩所有の兵書を読んでいたので、それが役立った。よく訪ねてくる人の中に江川英敏(ひでとし)がいた。我が国屈指の兵学者江川太郎左衛門英龍(たろうざえもんひでたつ)、通称江川担庵(たんなん)の後継者である。
坦庵は伊豆国田方郡の韮山代官所の代官で、江戸湾防備の権威者だった。高島秋帆(しゅうはん)について砲術を学び、韮山に塾を開き、小銃操法、銃隊調練、大砲撃ち方、馬上砲、船打ち稽古、火薬製造、築城術などを教えていた。それだけではない。鉄鉱石から鉄を作り出す反射炉も建設、農兵の制度育成にも努めた先駆者だった。