03月27日(水)、晴のち曇。朝は陽が差して気分を明るくする。が、分厚い雲が張り出して、あたりは暗くなる。明日は、晴れる予定。西総合スポーツセンターでの地震の罹災証明発行の対応は続いているが、今週からどういうわけか、1周500メートルのトリムコースが使えるようになった。晴れたら、ジョギングができる。うれしい。
栖来ひかり氏の『時をかける台湾Y字路』の12章「描かれたY字路 台湾アイデンテイテイ」の引用を続ける。
「たしかに、そのころの中華民国の国民といえば台湾をふくめ、北はモンゴル、西はウイグルやチベットまでが「自分の国」と教えられて育ったので、幼なごころに信じていたものを裏切られたという思いが、現在のHさんの「台湾サイズ」の「台湾人アイデンテテイー」を強めていることは間違いがなかった。しかし、台湾の人々がそうした台湾意識を求めるこころは、戦後に中華民国になってから抱かれるようになったのではないことを、わたしはHさんが研究している戦前の台湾人画家たちの作品を通して知ることになる。
西洋でうまれた美術、いわゆる「洋画」が日本へ渡ったのは、バテレンたちがキリスト教を伝えた16世紀の戦国時代ごろまで遡るが、油絵具をつかった洋画が日本に定着したのは明治維新以降のことである。そして、それまで日本には「美術」という概念を表す言葉はなかった。もちろん画や工芸、和建築や庭づくりについて日本各地で研鑽されてきた技術や美意識はあったが、あらためて「美術」という単語が日本の歴史のうえに現れたのは1872(明治5)年のウイーン万国博が行われる際のことだ。
ときに人間は国際的(インターナショナル)になればなるほど、国粋的(ナショナル)になるらしい。西洋式の生活スタイルとともに洋画や美術といった概念が西洋より輸入され、万国博に出展するようになった明治以降、日本人はこぞって「富士山」「芸者」「和服」奈良の大仏」といった日本ローカルなアイコンを好んで描くようになる。(前掲書、p201〜202)
(写真)上:今朝の空、左(西)から雲が張り出してきている。下:角田山・桜尾根コースの雪割草。3月24日。
にほんブログ村