03月15日(金)、晴。青空が広がって、陽光は春だが、強風は冬だ。冬と春が混じり合った陽気。梅は咲いても、桜はまだ。
(写真)今日の空と空き地に咲いた梅。
この著者の栖来さんは、大学時代は「美術」が専攻で、その面の造詣が深い。C社長の骨董店Kで働いたこともある、と書く。『時をかける台湾Y字路』の12章「描かれたY字路 台湾アイデンテテイーを探して」の引用を続ける。
「(前回からの続き)かつての台湾の若き芸術青年たちの心の躍動を知って真っ先に思い出すのは、今のわたしの周りにいる台湾人の友人たちの顔である。デザインや文学、美術、音楽、映画、あらゆる文化的なベクトルにおいて、台湾カルチャーを生み育もうと日々邁進している彼ら。その萌芽はすでに100年も前からあった。ではなにが、それらを阻んできたのだろうか。日本時代の美術の現場に立ち会った画家・立石鉄臣はこう分析する。
「美の本源を知るすべである美術館無く、基礎修行を行うべき研究所無きこの地の当然の結果」
50年もの長きにわたって台湾を統治し、「台展」といった大祭典をぶちあげながら、台湾総督府は台湾に美術館、そして美術学校はおろか研究所さえつくることはなかった。美術に対して意識を深める場所がないから、パトロンやマーケットの育ちようもない。台湾人の画家たちはせっかく東京で学んでも、内地ばかりか台湾においても教職としての勤め先はなかった。
そのまま戦後になり、台湾は国民党の統治下となる。
「文人」という文化をもち、書画骨董など文化的知見の深い人の多かった国民党の高官たちによって台湾に持ち込まれたのは中華文化の中心として輝く運命は決定づけられる。だがその一方で、100年前に芽生えた台湾という島に根差した台湾文化への渇望は舞台をうしない、息をひそめるしかなかったのである。
だからだ。思いだした。骨董店KのC社長は、いつも嘆いていた。
「台湾には文化がない」
それは本当に文化がないというより、その価値が認められていないという意味だろう。だからといって、C社長は手を拱いていたわけではない。清代から戦前を中心に、台湾でうまれた美術品を「台湾文献」としてコレクションしていた。(続く)」(前掲書、p206〜208)