04月11日(木)、晴。新潟地方気象台は、今日が新潟市の桜の満開日と発表。絶好の花見日和が続いている。が、なかなか出かけられないのだが。昨日は、シロアリの業者点検。5年の保証期間が終わる。更新するには、巨額の費用がか
かる。
大鳥は適塾時代を自伝で、こう回想している、という。
[往くに就いても、親父も中々そう学費を十分に出してくれない。マア幾らか金を用意して旅費並びに学資として、それを持って大阪へ往った。
緒方の塾に入って原書を読んだ。今ならば英書を読むにも、仏書を読むにも、最初には単語の極く易しいものを学んで、追々にその文に綴ったものを読み習わすのが、今の仕方でありますが、その時分にはそういう事をしないで、いきなりに「グラマンチカ」英書の「グラマー」即ち文法書から始めた。]
「創成期の語学教育はこのようなものだった。原書は大半が人体の構造をしめす生理学、解剖学、病理学などの本だった。
これらの原書は長崎の通弁に頼んでオランダ人から買い上げたもの、あるいはオランダに注文して取り寄せたものだった。それを皆が写すのである。写したものを別の人が写す、という方法で本を増やしていった。オランダ人の教師がいたわけではないので、発音はかなりいい加減なものだったにちがいない。
筑前福岡藩公が80両も出して入手したエレキトル(電気)の本を借りたときなどは、塾生が雲霞(うんか)の如く集まって一同、筆、紙、墨を用意して、これを写しとった。
日々の暮らしは、破天荒だった。福沢諭吉の『福翁自伝』に詳しい記述があるが、塾風は不規則、不整頓、乱暴狼藉、物事に無頓着、不潔の極みだった。毎朝顔を洗う洗手盥(ちょうずだらい)で洗濯はするわ、そうめんを茹でるわ、冷やすわ、野菜を洗うわ、何にでも使った。
虱は塾中永住の動物で、ちょっと裸になれば5匹や10匹はすぐに捕ることが出来た。諭吉は一発で虱を殺してみせるといって、厳冬に襦袢(じゅばん)を物干しにさらして虱の親も卵も一緒に枯らしたことがあった。(続く)」(前掲書、p9〜10)