02月01日(木)、曇。昨日が暖か過ぎたせいか、今日は寒さを感じる。午後、地域周り。雪も雨も降らない。ありがたい。
『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』の「15章 外代樹の死」からの引用を続ける。八田家が台北のどこに住んでいたかはわからないが、総督府の近くなのだろう。
台北市は、台北大空襲を受けた。1945年(昭和20年)5月31日、アメリカ軍の爆撃機(117機)により無差別爆撃である。この空襲で市民約3000人(日本人が中心)が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った、といわれる。
「台北の家は窓ガラスが2、3枚壊れていただけで、健在であったが、道路のいたる所が爆弾のために破壊され大穴があいていた。
台北に帰った子供たちは、浩子の夫で総督府財務局に務めていた菱沼貞雄氏が面倒を見てくれ、再び学校に通うことができた。
10月17日は、中華民国台湾駐防第70軍が基隆に上陸し、24日には台湾省主席になった陳儀が着任した。その翌日の25日には、台北公会堂において台湾引き渡しの調印式が、陳儀主席と安藤総督の間で実施され、50年間に及ぶ日本の支配は終わった。
日本人の関心は、台湾を永住の地として永々と生活してきた日本人が、どのような処遇を受けるかということであった。日本に帰ったところで、住む場所もなければ、財産もなかった。中には、台湾に生まれ育ち日本内地そのものを知らぬ者も多くいた。
(写真)昭和16年夏、総督府にて、大洋丸で同時に殉職した湯本技師と。追偲録『水明り」より。 このまま台湾に残れるのか、日本に引き揚げねばならないのか、不安だった。
昭和21年2月15日、日本人引き揚げ命令が発表された。
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