03月26日(火)、雨。時折、激しく降る。自分の健康のための外の運動は、あきらめるしかない。夕食の材料は、悪天候を予想して買っておいた。
いい写真とは何でしょう?
それはつまり「感情が伝わる写真」のことです。
「感情が動いたときに写真を撮る」
それだけでいいんです。
(幡野広志『「いい写真」はだれでも撮れるものです。』
栖来ひかり氏の『時をかける台湾Y字路』の12章「描かれたY字路 台湾アイデンテイテイ」の引用を続ける。
「(前回からの続き)そういった台湾美術史に連なる作品のことを調べにKへとやってきたのが、台湾美術史の研究者であるHさんとドキュメンタリー映画監督のLさんだった。Hさんは台湾大学で歴史を学んだあと、幼い娘さんをつれて日本へと留学、東大で東洋美術史を修めて博士号を取得した才女である。
わたしが骨董店Kで初めて会ったとき、 Hさんはまだ東京大学の博士課程にいたが、腕には日本で生まれた二人目の乳飲み子を抱え、周りの人のサポートを得ながら研究に燃えていた。Lさんは、日本男性と結婚して子育てしながら作品を撮りつづけ、台湾では知られたドキュメンタリー映画作家である。
C太太、Hさん、そしてLさんをはじめとする元気な台湾女性たちとの出会いは、当時まだ執筆を始めておらず、幼いわが子の世話に追われて進むべき方向を見いだせぬまま、見知らぬまちの夜の暗いY字路を前に、左右どちらに行けばいいかもわからず突っ立っていたようなわたしの足元を、暖かく照らし出してくれる幾本ものマッチだった。
Hさんとの付き合いはその後も続き、台湾での初めての自著で、華語への翻訳をしてもらうことになった。その翻訳作業のなかで、いろいろの問題がでてきた。たとえば、日本時代のひとつひとつの事柄をどう表現するかという問題だ。
台湾を植民地として支配した側である日本人が、台湾の人々に読んでもらうために台湾の歴史について書くということ、その難しさについて、わたしたちは何度も話し合った。そして、その困難に向き合っているのはHさんも一緒だった。戦後の台湾で生まれ育ったHさんは、国民党による反日教育を日常的に受けて育った。学校で教師から、「銃剣で妊婦や赤子を刺し殺すほど残虐な日本人」の話を何度も聞かされてきた世代である。