02月08日(木)、曇時々小雨。立春すぎても、寒い日が続いている。そろそろ暖かくなってほしい。
「八田與一と外代樹の死」は、先の大戦の「惨さ」「悲劇」を象徴するもの。二重、三重の悲劇だ。長男の晃夫(てるお)が、「子を残して突然死んだ母を私は長い間、恨んでいた」と述懐していた、という情報もある。
古川勝三著『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』と楷潤著『八田外代樹の生涯』は、何度か図書館から借りて読んだ。今回も、返却期限が近づいた。(両著作については、ブログ制作でたいへんお世話になった。ここであらためて感謝したい。)
が、八田與一の「人となり」などがよくわかる、「十二章 八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を紹介したい。
「八田技師の銅像には、嘉南の人々の心温まる物語が秘められている。
烏山頭ダムの工事が終わりに近づいた昭和5(1930)年3月になると、與一は工事に忙殺されながらも、気が沈み勝ちになった。(写真)殉工碑(著書より)。昨年訪問時に、どういうわけか写真を撮り忘れた。
烏山頭での工事が終われば、10年間、共に生活した仲間が、家族共々烏山頭へ去って行かなければならないからである。
與一には、すでに1月、総督府内務局土木課勤務の内命が下っていた。
誰もが烏山頭を去り難い空気の中で、技師を始め事務員、労働者、工夫の間から苦楽を共にしてきた絆を今後も残すために、会を作ろうという声が上がり「校友会」が組織され、会長に與一が選ばれた。
校友会は、工事中の事故や風土病で倒れた仲間や家族の霊を慰めるために、まず、殉工碑を建立することにして、3月の末には完成させた。
この殉工碑は、現在でも烏山頭で見ることができる。(続く)」(p230)