04月23日(火)、曇時々晴。花見の季節が終わって、新緑の季節を迎える。わが家の庭でもいろんな花が咲き(咲こうとし)、目を楽しませてくれる。
(写真)満開をすぎた石楠花。
大鳥圭介の父も祖父も医者だった。そして、大鳥自身も後を継ごうとした。しかし、別の道を歩んだ。医者とは、「病人(怪我人)の診察・治療を職業とする人」(デジタル大辞泉)とある。大鳥のその後の歩みは、医者とは真逆の「軍事研究家(軍人)」である。実際に、戊辰戦争で殺傷の場面に出くわすわけだが、矛盾・葛藤がなかったのだろうか。
前の引用では、「大鳥もこうした軍政改革の渦中に巻きこまれた。外国船もどんどんやってくる。各大名の家来が小銃を手に調練するようになった。大小銃を拵(こしら)えるところもあり、台場を築くことも盛んになった。皆、それを調べてくれという。やって見ると面白い。懐も暖かくなる。」
さらに、「江戸に出てきて4年ほどたったころ、江川から「新銭座の屋敷に来て教授をし、本を読むことを教えてくれ、金は不自由なくやる」というありがたい話を受けた。坪井先生に相談すると、「それは面白い。時勢に応じたことをやるのもよいではないか」と言ってくれたので、医者への道を止めて、兵学者に転身することにした。」
ということは、「金が儲かる」「時勢に応じたこと」が大鳥を軍事研究に向かわせたようだ。これが時代の流れというものだろうか。
『大鳥圭介』(星亮一著)から、引用を続ける。
「本格的な訓練場は韮山にあり、そこは実に広大なものだった。小銃や大砲の訓練は裏山や所有の山林、沼津の海上で行われていた。体力を鍛えるために狩猟を課し、険しい山中を走らせた。体力が落ちると小銃の命中率が極端に悪くなるからだった。すべて実践を想定した訓練だった。
担庵の考えは国防軍の育成だった。幕府の軍事力はもっぱら国内の内乱や一揆などを想定したものであり、外国の武力侵攻には対処できなかった。いうなればここは民間人の手による我が国唯一の軍人養成学校といってもよかった。担庵の門弟は約4000人といわれ、この中には幕府の老中や若年寄、勘定奉行といった高官も含まれていた。
外国語教育もしっかりしていて、江戸屋敷ではアメリカ帰りのジョン万次郎を講師とし英語の学習も行われ、福沢諭吉、榎本武揚らも学んでいた。
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