02月16日(金)、晴時々曇。気温がぐっと下がった。昨日の最高気温は、16℃もあったのに、今日は6℃。寒さを強く感じるわけだ。昨日の新潟駅前の宴は、大いに盛り上がり、大阪弁の高校の同級生は、考えていることも行動のしかたも、自分と同じなのにびっくり。
「八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を引用して、紹介を続ける。
「余談になるが、與一の銅像の製作者は、つい最近まで、吉田三郎と信じられていた。農田水利会の人々も、烏山頭でかつて働いていた人々も、そう信じて疑わなかった。
それも当然なことで、與一への銅像贈呈除幕式の当時の案内状には、
「伊東画伯の尽力により、且つまた、彫刻家吉田三郎先生の御援助によりまして、漸く、本月8日、当所に実体が着きまして、贈呈の運びとなりました」
と記されていて、制作に関しては、吉田三郎以外の名前は記されていない。ところが、いろいろ調べてみると、制作者は吉田三郎ではなく都賀田勇馬であることが分かった。
今となっては、確かめようもないが、與一の銅像は、伊東の紹介で吉田三郎に持ち込まれたが、何かの都合で後輩の都賀田勇馬が制作することになったのであろう。
吉田も都賀田も金沢の人で、共に東京美術学校の先輩、後輩の間柄であり、同じ下宿に住んでいたこともある。後に、勇馬は朝倉文夫に師事し、塾頭として活躍、池袋にアトリエを構え優れた作品を世に出している。この池袋のアトリエに、與一の部下が写真を持参し、與一の銅像制作を依頼したのである。
勇馬は、銅像制作する時、写真だけでその9割を作り上げ、最後の仕上げの時だけ、本人に来てもらうことが多かったと、ご子息の都賀田伯馬氏が語っているから、與一も東京へ出張した時に、勇馬とあっている可能性がある。
その勇馬は、昭和26年に「ハニべ巌窟院」を小松市郊外に発願し、院主となる傍ら、多くの優れた作品を発表し、昭和56年に90歳の生涯を閉じている。