01月31日(水)、晴。長かった1月が終わる。長く感じたのは、1月元日の地震のせいだろうか。予定通り、ジョッギング。西総合スポーツセンターが地震対応で、「被災相談窓口」になっていた。新聞やネットでは知っていたが、実際に目にしたのは初めて。が、1周500mのトリムコースが使えたので、ありがたい。
そういえば、東日本大震災の時はここ全体が福島県民の避難所になったことを思い出した。
前回、八田與一と外代樹の死は、先の戦争の二重の悲劇である、と書いた。『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』を書いた、古川勝三(ふるかわかつみ)氏も同じようなことを述べている。
「大洋丸事件のような惨事は、他にも起こっている。
昭和18年3月、台湾基隆沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受け、千数百名と共に沈んだ連絡船「高千穂丸」。敗色の濃い昭和19年8月、沖縄から本土に疎開学童を運ぶ途中、鹿児島県沖で沈められ、死者1425人を出した「対馬丸」。昭和20年4月、台湾海峡でアメリカ合衆国の潜水艦に撃沈され、死者2044人を出した「阿波丸」。
敗戦後の昭和20年8月、樺太からの引揚者を運ぶ途中、北海道留萌沖で沈められ、死者1708名を出した「泰東丸」「小笠原丸」などである。
二度と再び、このような惨事を招く戦争をしてはならない。今日、平和な日本に生きる私たちは、戦争のもつむごさを直視し、子どもたちに、戦争の悲惨さや愚かさを教える権利と義務がある。(―線:引用者)」(前掲書、「14章 大洋丸の惨事」p299〜300)
古川勝三氏は、1980年から3年間文部省海外派遣教師として、台湾省高雄日本人学校に3年間勤務した。そして、1991年『台湾を愛した日本人』で土木学会著作賞を受賞。愛媛県内で教職の道を歩み、最後は校長職も務めた。1944年生ま...