03月14日(木)、曇時々晴、一時雨(霰)。午後から大風が吹く。この天気の中、友人の庭師から冬囲いの撤去をしてもらった。晴れ間をみながら、半日で終わらせてくれた。ありがたい。
『時をかける台湾Y字路』の12章「描かれたY字路 台湾アイデンテテイーを探して」を「陳澄波」との関連で取り上げたのだが、あらためてこの章を読み直すと、「台湾のアイデンテテイー」に関わる、そして、台湾・中国・日本の近現代史に関わる重要で、面白い部分であることがわかる。とりあえず、昨日の続きを引用する。
「(昨日からの続き)一方で、顔娟英氏は台展に参加した若者たちについて、こうも書く。
「台湾の特色を創造するというスローガンは、むしろ台湾人の新世代の興味を惹きつけ、彼らを熱心に参与させたということである。清代の台湾は辺境であり、一般人は土地を開拓したり科挙を受けるぐらいしか社会的に上昇してゆく機会はなかった。1910年代半ば以降、経済の安定的成長により、多くの台湾青年が日本や中国に留学できるようになり、彼らは自らの郷土の持つ複雑で曖昧な背景を自覚すると、『台湾文化』を創造し、またレベルを上げていくということに、強い希望と関心をいだくようになったのである」
1928年、台湾民族運動の高まりを背景として帝展入選をきっかけに台湾美術界に彗星のごとく現れ、「芸術を愛する吾々の心は、吾等の郷土台湾島への殉情(ママ)を強ひるからだ」と語った陳植棋(ちんしょくき:1906〜1931)の作品『台湾風景』をみれば、画面の真ん中にあるのはY字路である。(写真)陳植棋『台湾風景』。前掲書より。
ぐにゃぐにゃと暗くのびる右側の道に対して、左側のきちんと舗装された道。その左側を堂々と歩いていく子供と、それを見守る日傘をさした母親の姿。日傘は「洋式」の象徴であり、手前には近代風の建物が描かれていて、その向こうには台湾の伝統的な家並みが続いている。若き陳青年はY字路のさきに、どんな未来を夢見ていたろうか。台湾美術界のリーダーとして将来を目された陳植棋。しかし、病を得て26歳という若さで亡くなってしまう。(続く)」(前掲書、p204〜206)
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