02月06日(火)、曇時々雨。晴れ間を見て、リュックをかついで、歩いて、近くのスーパーに買い出し。ジョッギングやウオーキングができない時は、歩数稼ぎにもなる。約4000歩。
クレジットカードで支払いをするのだが、受け取った領収書は、要らなくなった大判雑誌(「料理・買い出し」というタイトルをつける)に貼り付けて取っておく。なぜなら、「この控えは 大切に保存して下さい」とあるし、返品や交換の時にも必要だ。そして、なによりそれが「生きているあかし」になるから。
『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』の「15章 外代樹の死」の最後の部分を引用する。
「嘉南大?水利組合は接収が終了すると、嘉南農田水利協会と名称を変え、台湾人だけの組織に変わった。
台湾全土で日本色が一掃され始めた。日本式神社が壊され、残存した日本人の銅像はすべて、引き倒された。その世情の中で協会の人たちは、八田夫妻の墓を造ることにした。純日本式の墓にするため、大理石ならいくらでもある台湾で、御影石を探した。
やっと高雄市で、福建省産の御影石を見つけ、日本式の墓石を作ってもらうように注文した。
やがて出来上がった墓石は、かつて八田技師の銅像のあった場所のすぐ後に建立し、台北の東本願寺に安置されていた與一の遺骨と外代樹の遺骨を共に納めた。二人だけの墓であった。
昭和21年12月15日のことである。
丁度この日、留用者用の引き揚げ船が基隆港を離れ、日本に向かった。
この引き揚げ船には八田夫妻の遺児、浩子、玲子、成子が、菱沼貞雄氏に連れられて乗っていた。
胸には父と母の遺骨の一部が、しっかりと抱かれていた。
「お父さん、お母さん、思い出深い烏山頭で静かに眠ってください。いつの日か必ず会いに来ます」と心の中で叫んでいた。
27年後、子供たちは再び烏山頭を訪ねた。そこには、毎年父の命日の5月8日に、慰霊祭を行なってくれている嘉南の人々が、待っていた。