02月09日(金)、曇時々小雨。気温が上がらず、寒い。
與一の銅像について、紹介する。
「(前回の続き)烏山頭ダムの入口を入って、300メートルほど登っていくと、導水路と放水門を見下ろせる場所に出る。この場所にはコンクリート製の休憩所があり、この手前を右に折れ、浄水場に沿って小道を20メートルほど進むと、そびえ立つ大きな碑が見えてくる。碑は三段になっていて、最上段の細長い碑の表には、「殉工碑(じゅんこうひ?)」と刻まれ、裏には「維新昭和五年三月建立、烏山頭校友会」と彫られている。また、中段の石板表面には與一の名前で次の文章が彫り込まれている。」(写真)「殉工碑?」の位置を示すガイドマップ。昨年の訪問時にいただいた。
難解な文字が多いが、取り急ぎ、與一の文章を読んでみたい。ひらがなと意味は、引用者がつけた。間違っているかもしれない。
「嘉南大?(かなんたいしゅう)は其の利澤(りたく:利益と恩沢)を蒙(こうむ)る広袤(こうぼう:東西と南北の長さ)の宏いなると其の水源に於ける工式の雄なるとにに於いて世界に冠たり従って其工細且微にして施工上幾多の困難に逢著(ほうちゃく:出会う)せるも辛楚(しんそ:つらさ、苦しみ)十年茲に工全く成る
諸子(しょし:君たち)は斯る間に於いて不慮の災厄に遭い或いは風土の疫病に冒され空しく異郷の墳瑩(ふんえい:墓場)に眠る轉(うた:移る)た痛惜(つうせき:非常に悲しみ惜しむ)に堪へさるなり、雖然諸子は斉しく犠牲的殉工者にして一死克(よ)く従業員の志気を鼓舞し以て此大工を竣(お)ふるを得たり又偉なりと謂ふへし。
噫々彼の淙淙たる曽文渓水は此蜿蜿(えんえん:うねうねとどこまでも続く)たる長堤に蘊崇(うんすう:たくわえる)して長へ汪々たる碧潭を奉し随時の潅水は滾滾(こんこん)還流して盡(つ)きさる限り諸子の名も亦不朽なるへし
乃ち茲に地を卜(ぼく:うらなって定め)し碑を建て以て諸子を傳ふるの文となす矣(かな)
昭和五年三月
烏山頭校友会長 八田與一」
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