02月22日(木)、曇時々小雨。風もあって、寒い。地域周り。見上げる空は暗い。話も弾まない。8000歩も歩くから、いい運動だ。(写真)今日の暗い空。
「八田技師の銅像」(『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』)を引用して、紹介を続ける。
「(前回の続き)少年の名は坂井登といい、父親の茂は、嘉南大?が完成するまで職員として働いており、その後は台南州庁の幹部になっていた人である。敗戦で給料が支給されなくなった父の窮状を救おうと、兄と二人で荷物運びのアルバイトをしているとき、偶然にも「赤嵌楼」の裏で見付けたのである。
帰宅した登が、家族に告げると驚いた父親が、水利協会に連絡して「買い取った方がよいのではないか」と持ちかけたところ、直ちに買い戻されて番子田駅にあった水利協会の倉庫に隠された。
幸いなことに、與一の銅像は無傷のままであった。水利協会の人々は「八田技師の銅像が無事であった」という知らせに驚くと共に、その発見を心から喜びあった。しかし、その発見を声を大にして語れない世情であった。與一は嘉南の恩人であったが、同時に、日本人でもあった。
政府に内緒で銅像を買い戻し倉庫に隠したことは、どんな処罰を受けるか分からない生命がけの行為であった。だから、もとの場所には置けなかった。與一の銅像が、再び消えてなくなることを最も恐れたからである。
倉庫の銅像は、かつて與一の一家が住んでいた家の応接間の前のベランダに移された。やがて、嘉南の農民が、この銅像の前を通る時、誰とはなしに手を合わせて拝む姿が見られるようになっていった。
ところが、その頃、台南神社に奉納されていた神馬の銅像の足と尾が切断され、売られるという事件が発生した。当時、銅は高価な金属で、よい値段で売れたのである。このため、水利協会では與一の銅像も同じ目に遭ってはいけないと考え、烏山頭管理事務所に移し、不心得者守ることにした。ここなら、盗まれたり、傷つけられたりする心配はないだろうと考えたのである。」(前掲書、p238〜239)
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