| | 河北省山海関から、甘粛省まで至り、総延長は2400Kmに及びます。
一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、明代に作られたものもあります。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していました。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られていました。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのです。この時の長城は土製で、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったといいます。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及びました。
前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張されました。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築きました。
しかし、後の北方民族・契丹の「遼」、女真の「金」、モンゴル人の「元」は、難なく長城を超えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれました。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になりました。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われますが、実際は草原の中に建っています。中国人の北方民族に対する恐れと憎しみが伺えますが、モンゴル系民族は明代にも長城を超えて侵入を繰り返し、明末には満州(女真)が再び長城を超えて明は滅び、「清」の成立に至りました。
[改訂履歴] |
|
|
|
| |
|