| | 開平には大小の河川が網状に流れているため、交通の要衝であるとともに、匪賊が多発する治安の悪いところでもあった。また洪水にも度々見舞われた。このため清朝時代には防犯のため、村の高台に、防衛機能・村人の避難場を備えた「更楼」の建築が始まった。出入り口は、鉄格子も併設した2重の門で、非常に厳重だった。窓は、厳重で小さな鉄窓、分厚い壁だった。
清朝末期(アヘン戦争後)黒人奴隷が廃止されていく時代背景下、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは、黒人奴隷に代わる廉価な労働力を求めた。中国人労働者は「苦力」として海外に出稼ぎに行った。開平出身の在外華僑は67カ国・75万人で、華僑の輩出地としても有名になった。清朝が滅亡し、中華民国が建国された(1912〜1949年)後、開平一帯の治安状態は最悪になった。防犯上「望楼」は大いに役立ったため、「望楼」の建築ラッシュが始まった。村の出入り口には、「門楼」と呼ばれる3〜4階の小型の監視を目的とする(目立たない)楼を建てた。
1920〜30年代、海外で成功した華僑や帰国した人々は、一族の「安全」ために「更楼」を建てた。望楼には、 serchlight や警報機などを設置。壁には銃眼がある。この時代に建てられた「更楼」は、防護に優れながら人の居住も可能なものが求められた。外観は、教会の鐘楼風というか欧州古城風というか、ともかく“華美”な更楼=「居楼」だった。ついでに西洋式建築で2〜4階建ての別荘「盧」を建てた。
更楼、門楼、居楼、盧、これらを総称して「望楼/」と呼ぶ。望楼が現在も田園の中に林立する地域が、広東省開平〜台山である。望楼は、主に鉄筋コンクリート、青レンガ、三合土、石などでつくられた。建築スタイルは、実にたくさんあるが、大部分は中華様式と西欧様式の折衷である。
「望楼」の“密集地”である開平には、約3000棟の望楼が建っていたが、現存する望楼は1833棟のみ。
「望楼」が集中しているのは、塘口鎮(536棟:地味なものが多い)、百合鎮(385棟:三合土を使ったものなど、特異なものが多い)、赤坎鎮(200棟:凝ったものもある)、蜆岡鎮(155棟:華麗なものが多い)。 |
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