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  三国志(205) 劉表亡き後     
2024-02-21 01:50:00


 幼主と蔡夫人を主座に仰ぎ、蔡瑁、?越以下、宿将群臣たちは日々評議に余念なかった。
 「一戦いなみ難し」とする軍の主戦論は、濃厚であったが、文官側になお異論が多い。
 就中(なかんずく)、東曹の掾公悌(えんこうてい)は、
 「三つの弱点がある」と、国内の不備をかぞえて、非戦論を主張した。
 その一は、江夏の劉?が、国主の兄でありながら、まったく排(の)け者にされている不満から、いつ荊州(けいしゅう)の背後を突くか知れないという不安。
 二には、玄徳の存在である。しかも玄徳のいる新野は、この襄陽と江水ひとつをへだてた近距離にある。おそらく玄徳の向背はこの際、はかり知れないものがあろうという点。
 三つには、故太守の歿後、まだ日も経っていないので、諸臣の不一致、内政の改革、あらゆる備えが、まだ完(まった)き臨戦態勢に至っていない――というのであった。
 「その説に自分も同感である。自分をもっていわせれば、さらに三つの不利がある」
 と、続いて山陽高平の人、王粲(おうさん)字は仲宣(ちゅうせん)が起って戦に入る三害を力説した。       
 一、中国百万の軍は、朝廷をひかえ、抗するものは、違勅(いちょく)の汚名をうける。
 一、曹操は威雷電(いらいでん)のごとく、その強馬精兵は久しく名あるところ。荊州の兵は、久しく
実戦の体験がない。
 一、たとえ玄徳をたのみとするも、玄徳のふせぎ得る曹操ではない。もしまた、曹操に当り得るほど
な実力を彼に附与すれば、なんで玄徳が、わが君の下風(かふう)に屈していよう。
 公悌(こうてい)のいう三弱、王粲のあげた三害、こう数えたてれば、荊州は到底、中国百万の軍と雌雄を決して勝てる強味はどこにもない。結局、降服の道しかなかった。即ち、和を乞うの書をたずさえて、襄陽の使いは南進中の曹操の軍へ、急遽派遣されたのであった。

 百万の軍旅は、いま河南の宛城(えんじょう)(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしていた。
 そこへ、荊州から降参の使いとして、宋忠の一行が着いた。      
 宋忠は、宛城の中で、曹操に謁して、降参の書を奉呈した。
 「劉?の輔佐には、賢明な臣がたくさんいるとみえる」
 曹操は大満足である。
 こう使いを賞めて、

 「劉?を忠烈侯(ちゅうれつこう)に封じて、長く荊州の太守たる保証を与えてやろう。やがてわが軍は、荊州に入るであろうから、その時には、城を出て、曹操の迎えに見えるがいい。 ――劉?に会って、その折、なお親しく語ることもあろう」

 と、いった。
 宋忠は、衣服鞍馬を拝領して、首尾よく荊州へ帰って行った。 その途中である。
 江を渡って、渡船場から上がってくると、一隊の人馬が馳けてきた。
 「何者だっ、止れっ」
 と、誰何(すいか)されて、馬上の将を見ると、この辺の守りをしていた関羽である。
 「しまった」
 と思ったが、逃げるにも逃げきれない。宋忠は彼の訊問にありのままを答えるしかなかった。
 「何。降参の書をたずさえて、曹操の陣へ使いした帰りだと申すか?」
 関羽は、初耳なので、驚きに打たれた。
 「これは、自分だけが、聞き流しにしているわけには参らぬ」
 有無をいわせず、後は、宋忠を引ッさげて、新野へ馳けた。
 新野の内部でも、この政治的な事実は、いま初めて知ったことなので、驚愕はいうまでもない。
 わけて、玄徳は、
 「何たることか!」
 と、悲涙にむせんで、昏絶せんばかりだった。
 激しやすい張飛のごときは、
 「宋忠の首を刎ねて血祭りとなし、ただちに兵をもって荊州を攻め取ってしまえ。さすれば無言のうちに、曹操へやった降参の書は抹殺され、無効になってしまう」
 と、わめきちらして、いやが上にも、諸人を動揺させた。
 宋忠は生きた心地もなく、おどおどして、城中にみなぎる悲憤の光景をながめていたが、
 「今となって、汝の首を刎(は)ねたところで、何の役に立つわけもない。そちは逃げろ」
 と、玄徳は彼をゆるして、城外へ放ってやった。
 ところへ、荊州の幕賓、伊籍(いせき)がたずねてきた。宋忠を放った後で、玄徳は、孔明そのほかを集めて評議中であったが、ほかならぬ人なのでその席へ招じ、日頃の疎遠(そえん)を謝した。
 伊籍は、蔡夫人や蔡瑁が、劉?をさしおいて、弟の劉?を国主に立てたことを痛憤して、その鬱懐(うっかい)を、玄徳へ訴えに来たのであった。
 「その憂いを抱くものは、あなたばかりでありません」と、玄徳はなだめて後、
 「――しかも、まだまだあなたの憂いはかろい。あなたのご存じなのは、それだけであろうが、もっと痛心に耐えないことが起っている」
 「何です? これ以上、痛心にたえないこととは」
 「故太守が亡くなられて、まだ墳墓の土も乾かないうち、この荊州九郡をそっくり挙げて、曹操へ降参の書を呈したという一事です」
 「えっ、ほんとですか」
 「偽りはありません」
 「それが事実なら、なぜ貴君には、直ちに、喪を弔うと号して、襄陽に行き、あざむいて幼主劉 をこちらへ、奪い取り、蔡瑁、蔡夫人などの奸党閥族(かんとうばつぞく)を一掃してしまわれないのですか」
 日頃、温厚な伊籍すら、色をなして、玄徳をそう詰問(なじ)るのであった。

 孔明も共にすすめた。
 「伊籍のことばに、私も同意します。今こそご決断の時でしょう」
 しかし玄徳は、ただ涙を垂るるのみで、やがてそれにこう答えた。
 「いやいや臨終の折に、あのように孤子(みなしご)の将来を案じて、自分に後を託した劉表のことばを思えば、その信頼に背くようなことはできない」
 孔明は、舌打ちして、
 「いまにして、荊州も取り給わず遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)、曹操の来攻を、拱手  (きょうしゅ)してここに見ているおつもりですか」と、ほとんど、玄徳の戦意を疑うばかりな語気で詰問(なじ)った。
 「ぜひもない……」と、玄徳は独りでそこに考えをきめてしまっているもののように――
 「この上は新野を捨てて、樊城(はんじょう)へ避けるしかあるまい」と、いった。
 ところへ、早馬が来て、城内へ告げた。曹操の大軍百万の先鋒はすでに博望坡(はくぼうは)まで迫ってきたというのである。
 伊籍は倉皇と帰ってゆく。城中はすでにただならぬ非常時色に塗りつぶされた。
 「ともあれ、孔明あるからには、御心(みこころ)をやすんじ給え」
 玄徳をなぐさめて、孔明はただちに、諸将へ指令した。
 「まず、防戦の第一着手に、城下の四門に高札(こうさつ)をかかげ――百姓商人老幼男女、領下のものことごとく避難にかかれ、領主に従って難を避けよ、遅るる者は曹操のためかならず皆殺ししにならん――としるして布令なす事」と、手配の順に従って、なお、次のように云いわたした。
 「孫乾(そんけん)は西河の岸に舟をそろえて避難民を渡してやるがよい。糜竺はその百姓たちを導いて、樊城へ入れしめよ。また関羽は千余騎をひきいて、白河(はくが)上流に埋伏(まいふく)して、土嚢を築いて、流れをせき止めにかかれ」
 孔明は、諸将の顔を見わたしながら、ここでちょっと、ことばを休め、関羽の面(おもて)にその眸をとどめて云い足した。
 「――明日の夜三更の頃、白河の下流(しも)にあたって、馬のいななきや兵のさけびの、もの騒がしゅう聞えたときは、すなわち曹軍の潰乱なりと思うがよい。上流にある関羽の手勢は、ただちに土嚢の堰(せき)を切って落し、一斉に、激水とともに攻めかかれ。――さらに、張飛は千余騎をひっさげて、白河の渡口(わたし)に兵を伏せ、関羽と一手になって曹操の中軍を完膚なきまで討ちのめすこと」
 孔明のひとみは、関羽から張飛の面へ移って云いつける。張飛はらんとした眼をかがやかして、大きくそれへうなずく。
 「趙雲(ちょううん)やある!」
 孔明が、名を呼んだ。
 諸将のあいだから、趙雲は、おうっと答えながら、一歩前へ出た。    
 「ご辺には、兵三千を授ける」
 孔明はおごそかにいって、
 「――乾燥した、柴、蘆(よし)、茅(かや)など充分に用意されよ。硫黄焔硝(いおうえんしょう)をつつみ、新野城の楼上へ積みおくがよい。明日の気象を考えるに、おそらく暮れ方から大風が吹くであろう。勝ちおごった曹操の軍は、風とともに、易々と、陣を城中にうつすは必然である。 ――時にご辺は、兵を三方にわけて、西門北門南門の三手から、火矢、鉄砲、油礫(あぶらつぶて)などを投げかけ、城頭一面火焔と化すとき、一斉に、兵なき東の門へ馳け迫れ。――城内の兵は周章狼狽(しゅうしょうろうばい)、ことごとくこの門から逃げあふれて来るであろう。その混乱を存分に討って、よしと見たらすぐ兵を引っ返せ。白河の渡口(わたし)へきて関羽、張飛の手勢と合すればよい。――そして樊城をさして急ぎに急げ」

 あらましの指令は終った。命をうけた諸将は勇躍して立ち去ったが、なお糜芳(びほう)、劉封などが残っていた。 
 「二人には、これを」と孔明は、特に近く呼んで、糜芳へは紅(くれない)の旗を与え、劉封には青い旗を渡した。いかなる計を授けられたか、その二将もやがておのおの千余騎をしたがえて、――新野をさること約三十里、鵲尾坡(じゃくびは)の方面へ急いで行った。(205話)
                  ― 次週へ続く ―

 

 

 

 

 

 


 
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