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  三国志(194) 呉(ご)の情熱     
2023-12-06 03:37:46


 眼を転じて、南方を見よう。
 呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。
 ここ数年を見較べるに――
 曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。
 玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。
 広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
 この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。
 何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
 それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。
 時。――建安の七年頃だった。――すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。
 美しい一艘の官船が檣頭(しょうとう)に許都政府の旗をかかげて、揚子江(ようすこう)を下ってきた。
 中央からの使者であった。
 使者の一行は、呉会の賓館にはいって、のち城中に登り、曹操の旨をつたえて、
 「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。――もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。言葉の上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。
 呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、
 「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」
 と、答えて、問題の延引策を取っていた。
 その後も、度々、長子を上洛せよと、曹操のほうから催促がくる。朝廷を擁しているだけに、彼の命は、すでに彼の命にとどまらない絶対権をおびていた。
 「母君。いかがしたものでしょう」
 孫権はついに、老母の呉夫人の耳へも入れた。   
 呉夫人は、
「あなたにはもう良い臣下がたくさんあるはずです。なぜこんな時こそ、諸方の臣を招いて衆智に訊いてみないのか」と云った。
 考えてみると、問題は子ども一人のことではない。質子(ちし)を拒めば当然、曹操とは敵国になる。そこで、呉会の賓館に、大会議をひらいた。 当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。
 張昭、張絋、周瑜、魯粛などの宿将をはじめとして、
 彭城の曼才(まんさい)、会稽の徳潤(とくじゅん)、沛県(はいけん)の敬文、汝南(じょなん)の徳枢(とくすう)、呉郡の休穆(きゅうぼく)、また公紀、烏亭(うてい)の孔休(こうきゅう)など。
 かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍、鳳雛といった――その鳳雛とは、襄陽のことだが、その統も見えている。
 そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯(ろうや)の徐盛とか――実に人材雲のごとしで、呉の旺(さかん)なことも、故なきではないと思わせられた。
 「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚(きたん)なくご意見を吐露していただきたい」
 張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。
 こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、種々である。
 質子(ちし)、送るべし。となす者。
 質子、送るべからず。 と、主張する者。
 ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、
 「周瑜に一言させて下さい」と、初めて彼が発言を求めた。

 呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策と同い年であったから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であった。
 「そうだ、周瑜のことばを聞いてみよう。説きたまえ」
 人々は、しばらく彼に耳をかした。
 周瑜は、起立していう。
 「僭越ですが、私は、楚国の始めを憶いおこします。楚ははじめ、荊山(けいざん)のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々たるものでしたが、賢能の士が集まって、ついに九百余年の基をひらきました。――いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、ここに三代、地は六郡の衆を兼ね、兵は精にし、粮(ろう)は豊山(ほうざん)を鋳(い)て銅(あかがね)となし、海を煮て塩となす。民乱を思わず、武士は勁勇、むかうところ敵なしです」
 「…………」
 彼の演舌を聞くのは初めての人々もあったらしく、多くは、その爽やかな弁と明白な理論に、意外な面持を見せていた。
 「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風(かふう)に媚びる必要がありましょう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれれば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るときは、相府に身をかがめ、位階は一侯を出ず、車数乗、馬幾匹定(さだ)め以上の儀装もできません。いわんや、南面して、天下の覇業(はぎょう)を行わんなど、思いもよらぬ夢でしょう。――まずここは、あくまで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見ている秋(とき)ではないでしょうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらわし、朝廷に忠なる宰相でないようなら、その時こそ、呉は天の時を計って、大いに為すある大理想をもたねばなりますまい」
 「……然り矣(い)」
 「そうだ。その時だ」
 述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、粛(しゅく)としていた。
 意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。
 この日、簾中に、会議のもようを聴いていた呉夫人も、甥の周瑜の器量をたのもしく思って、後に、近く彼を招き、
 「おまえは、孫策と同年で、一月おそく生れたばかりだから、わが子のように思われる。これからも、よく孫権を扶けて賜も」と、ねんごろなことばであった。
 かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。
 曹操も、以来、使いを下してこなかった。――或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。
 宣戦せざる宣戦――無言の国交断絶状態にはいった。
 が、長江の水だけは、千里を通じている。
 そのうちに。
 建安八年の十一月ごろ。
 孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖(こうそ)を攻めるためだった。兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。

 この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、
 「黄祖の首は、もう掌(て)のうちのもの」
 と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。
 もっとも大きな傷手(いたで)は、孫権の大将凌操という剛勇な将軍が、深入りして、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下(きか)甘寧(かんねい)の矢にあたって戦死したことだった。
 ために、士気は沮喪(そそう)し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があった。
 それは将軍凌操の子凌統で、まだ十五歳の年少だったが、父が、乱軍の中に射たおされたと聞くや、ただ一名、敵中へ取って返し、父の屍をたずねて馳せ返ってきた。
 孫権は、いち早く、       
 「この軍は不利」と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、
 「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。
 翌九年の冬。
 孫権の弟、孫翊は、丹陽の太守となって、任地へ赴いた。
 なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭打つ癖があった。
 「殺(や)ってしまおう」
 「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」
 丹陽の都督に、覧という者がある。同じ怨みを抱く郡丞(ぐんじょう)の戴員(たいいん)と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに対手の出入りをうかがっていた。
 しかし、孫翊は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣を佩いて、眼気(がんき)に隙も見えないため、むなしく機を過していた。
 そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。
 すぐ、許しが出たので、 覧はひそかに、孫翊の大将辺洪(へんこう)という者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴ということになっている。
 孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
 「じゃあ、行ってくるぞ」と、妻の室へ声をかけた。
 彼の妻は、徐氏という。
 呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、卜(うらない)をよくした。
 この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、
 「どうしたのでしょう。今日に限って、不吉な卦が出ました。なんとか口実をもうけて、ご出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」
 しきりと、ひきとめた。
 けれど孫翊は、
 「ばかをいえ、男同士の会合に、そうは行かないよ。ははは」
 気にもかけず出かけてしまった。
 評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、蹌踉と、門外へ出てきた。かねてしめし合わせていた辺洪(へんこう)は、ふいに躍りかかって、孫翊を一太刀に斬り殺してしまった。
 すると、その辺洪をそそのかした 覧、戴員のふたりが、急に驚いた態をして、
「主を害した逆賊め」と、辺洪を捕え、市(まち)へ引きだして、首を斬ろうとした。
 辺洪は、仰天して、
「約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」
 と、喚いたが、首は喚いている間に、地へ落ちていた。
  ?覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。
 一方、孫翊の妻の徐氏は、良人の帰りがおそいので、
 「もしや、易に現れたように、何か凶事があったのではないか」
 と、自分の卜(うらない)が的中しないことを今はしきりに祷っていた。気のせいか、こよいに限って、燈火の色も凶い。
 「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」
 ふと、帳を出て、夜の空を仰いでいると、中門のほうから歩廊へかけて、どやどやと一隊の兵が踏みこんできた。

  「徐氏か」
 先頭のひとりがいう。
 見ると、刀を横たえた都督だった。都督 覧 
 兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、
 「夫人。あなたの良人孫翊は、こよい部下の辺洪(へんこう)のため、会館の門外で斬り殺された。――が下手人辺洪は、即座にひッ捕えて、市へひきだし首を打ち落して、讐(かたき)を取った。――この?覧があなたに代って仇を打ってあげたのだ」
 恩きせがましく、こ...
 

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