凱旋の直後、孫権は父兄の墳墓へ詣って、こんどの勝軍(かちいくさ)を報告した。
そして功臣と共に、その後で宴を張っていると、
「折入って、お願いがあります」と、甘寧が、彼の足もとに、ひざまずいた。
「改まって、何だ?」と、孫権が訊くと、
「てまえの寸功に恩賞を賜わるかわりとして、蘇飛の一命をお助けください。もし以前に、蘇飛がてまえを助けてくれなかったら、今日、てまえの功はおろか一命もなかったところです」
と、頓首して、訴えた。 孫権も考えた。――もし蘇飛がその仁(じん)をしていなかったら、今日の呉の大勝もなかったわけだと。
しかし、彼は首を振った。
「蘇飛を助けたら、蘇飛はまた逃げて、呉へ仇をするだろう」
「いえ、決して、そんなことはさせません。この甘寧の首に誓って」
「きっとか」
「どんな誓言でも立てさせます」
「では……汝に免じて」と、ついに蘇飛の一命はゆるすといった。
それに従って、甘寧の手引きした呂蒙にも、この廉(かど)で恩賞があった。以後――横野中郎将(おうやちゅうろうしょう)ととなうべしという沙汰である。
するとたちまち、こういう歓宴の和気を破って、
「おのれッ、動くな」
と怒号しながら、剣を払って、席の一方から甘寧へ跳びかかってきた者がある。
「あっ、何をするかっ」
叱咤しつつ、甘寧も仰天して、前なる卓を取るやいな、さっそく相手の剣を受けて、立ち向った。
「ひかえろっ! 凌統(りょうとう)っ」急場なので、左右に命じているいとまもない。孫権自身、狼藉者をうしろから抱きとめて叱りつけた。
この乱暴者は、呉郡(ごぐん)余杭(よこう)、凌統(りょうとう)字を公績(こうせき)という青年だった。
去(さん)ぬる建安八年の戦いに、父の凌操(りょうそう)は、黄祖を攻めに行って、大功をたてたが、その頃まだ黄祖の手についていたこの甘寧のために、口惜しくも、彼の父は射殺されていた。
そのとき凌統は、まだ十五歳の初陣だったが、いつかはその怨みをすすごうものと、以来悲胆をなだめ、血涙をのみ、日ごろ胸に誓っていたものである。
彼の心事を聞いて、
「そちの狼藉を咎(とが)めまい。孝子の情に免じて、ここの無礼はゆるしおく。――しかし家中一藩、ひとつ主をいただく者は、すべて兄弟も同様ではないか。甘寧がむかしそちの父を討ったのは、当時仕えていた主君に対して忠勤を尽したことにほかならない。今、黄祖は亡び、甘寧は、呉に服して、家中の端に加わる以上――なんで旧怨をさしはさむ理由があろう。そちの孝心は感じ入るが、私怨に執着するは、孝のみ知って、忠の大道を知らぬものだ。……この孫権に免じて、一切の恨みは忘れてくれい」
主君からさとされると、凌統は剣をおいて、床にうっ伏し、
「わかりました。……けれど、お察し下さい。幼少から君のご恩を受けたことも忘れはしませんが……父を奪われた悲嘆の子の胸を。またその殺した人間を、眼の前に見ている胸中を」
頭を叩き、額から血をながして、凌統は慟哭(どうこく)してやまなかった。
「予にまかせろ」
孫権は、諸将と共に、彼をなぐさめるに骨を折った。――凌統はことしまだ二十一の若年ながら、父に従って江夏へおもむいた初陣以来、その勇名は赫々(かっかく)たるものがある。その為人(ひととなり)を、孫権も愛(め)で惜しむのであった。
後に。
凌統には、承烈都尉(じょうれつとい)の封を与え、甘寧には兵船百隻に、江兵五千人をあずけ、夏口(かこう)の守りに赴かせた。
凌統の宿怨を、自然に忘れさせるためである。(198話)
令和6年(2024年) 新春
― 次週へ続く ―