喪の冬はすぎて、歳は建安十三年に入った。
江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。
若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、
「黄祖を伐とうではないか」と評議にかけた。
張昭はいう。
「まだ母公の忌年もめぐってこないうちに、いかがなものでしょうか」
周瑜はそれに対して、
「黄祖を伐てとは、母君のご遺言の一つであった。何で喪にかかわることがあろう」と酬いた。
いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。
ところへ、都尉呂蒙がきて、一事件を披露した。
「それがし龍湫(りゅうしゅう)の渡口(わたし)を警備しておりますと、上流江夏のほうから、一艘の舟がただよい来って、二十名ほどの江賊が、岸へ上がって参りました」
呂蒙はまず、こう順を追って、次のように話したのである。
「――すぐ取囲んで、何者ぞと、取糺(とりただ)しましたところ、頭目らしき真っ先の男がいうには――自分ことは、黄祖の手下で、甘寧字を興覇とよぶ者であるが、もと巴郡の臨江に育ち、若年から腕だてを好み、世間のあぶれ者を集めては、その餓鬼大将となって、喧嘩を誇り、伊達を競い、常に強弓、鉞(まさかり)を抱え、鎧を重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人々、鈴の音を聞けば……錦帆(きんぱん)の賊が来たぞ!
錦帆来(きんぱんらい)! と逃げ走るのを面白がって、ついには同類八百余人をかぞうるに至り、いよいよ悪行を働いていたなれど、時勢の赴くを見、前非を悔いあらため一時、荊州に行って劉表に仕えていたけれど、劉表の人となりも頼もしからず、同じ仕えるなら、呉へ参って、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らい、荊州を脱して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、どうしても通しません。やむなく、しばらく止まって、黄祖に従っておりましたが、もとより重く用いられるわけもない。……のみならずです、或る年の戦いに、黄祖敵中にかこまれて、すんでに一命も危ういところを、自分がただ一人で、救い出してきたことなどもあったが、かつて、その恩賞すらなく、あくまで、下役の端に飼われているに過ぎないという有様でした。――しかるにまた、ここに黄祖の臣で蘇飛(そひ)という人がある。この人、それがしの心事にふかく同情して、或る時、黄祖に向い、それとなく、甘寧(かんねい)をもっと登用されては如何にと――推挙してくれたことがあったのです。
すると黄祖のいうには、――甘寧はもと江上の水賊である。なんで強盗を帷幕に用うべき。飼いおいて猛獣の代りに使っておけば一番よろしい。――そう申したので、蘇飛(そひ)はいよいよそれがしを憐れみ、一夜酒宴の折、右の事情を打明けて――人生いくばくぞや、早く他国へ去って、如かじ、良主をほかに求め給え。ここにいては、足下はいかに忠勤をぬきん出ても、前科の咎(とが)を生涯負い、人の上に立つなどは思いよらぬことと教えてくれました。……ではどうしたらいいかを、さらに蘇飛に訊くと、近いうちに、鄂県(がくけん)の吏に移すから、その時に、逃げ去れよとのことに、三拝して、その日を待ち、任地へいく舟といつわって、幾夜となく江を下り、ようやく、呉の領土まで参った者でござる。なにとぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまえと――以上、甘寧つぶさに身の上を物語って、それがしに取次ぎを乞うのでございました」
「むむ。……なるほど」
孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。
呂蒙は、なおこう云い足して、報告を結んだ。
「甘寧といえば、黄祖の藩にその人ありと、隣国まで聞えている勇士、さるにても、憐れなることよと、それがしも仔細を聞いて、その心事を思いやり……わが君がお用いあるや否やは保証の限りではないが、有能の士とあれば、篤く養い、賢人とあれば礼を重うしてお迎えある明君なれば、ともあれ御前にお取次ぎ申すであろうと、矢を折って、誓いを示したところ、甘寧はさらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげて――否やお沙汰の下るまで慎んでお待ちおりますと――ただ今、龍湫(りゅうしゅう)の岸辺に屯(たむろ)して、さし控えておりまする」
「時なるかな!」と、孫権は手を打ってよろこんだ。
「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり――というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」
こう孫権の命をうけ、呂蒙も大いに面目をほどこして、直ちに、龍湫へ早馬を引っ返して行った。
日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴われてきた。
孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。
「かねて、其方の名は承知しておる。また、出国の事情も呂蒙から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計は如何に、それを訊きたい。忌憚なく申してみよ」
孫権はまずいった。
拝礼して甘寧は答える。
「漢室の社稷(しゃしょく)は今いよいよ危うく、曹操の驕暴は、日とともにつのりゆきます。おそらく、簒奪(さんだつ)の逆意をあらわに示す日も遠くありますまい」
「荊州は呉と隣接しておる。荊州の内情をふかく語ってみよ」
「江川(こうせん)の流れは山陵を縫い、攻守の備えに欠くるなく、地味はひらけて、民は豊かです。――しかしこの絶好な国がらにも、ただ一つ、脆弱な短所があります。国主劉表の閨門の不和と、宿老の不一致です」
「劉表は、温良博学な風をそなえ、よく人材を養い、文化を愛育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申しているが――」
「まさにその通りです。けれどそれはもっぱら劉表の壮年時代の定評で、晩年、気は老い、身に病の多くなるにつれ、彼の長所は、彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰え、虚に乗じて、閨門のあらそいをめぐり、嫡子庶子のあいだに暗闘があるなど、――ようやく亡兆のおおい得ないものが見えだしました。討つなら今です」
「その荊州に入るには」
「もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るるに足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧(こんまい)し、貨利をむさぼることのみ知って、上下、心から服しておりませぬ」
「兵糧武具の備えはどうか」
「軍備は充実していますが、活用を知らず、法伍(ほうご)の整えなく、これを攻めれば、立ちどころに崩壊するだろうと思います。――君いま、勢いに乗って、江夏、襄陽を衝き、楚関にまで兵をおすすめあれば、やがて、巴蜀を図ることも難しくはございますまい」
「よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはなるまい」
孫権はすぐ周瑜に向って、兵船の準備をいいつけた。
張昭は、憂えて、
「いま、兵を起し給わば、おそらく国中の虚にのって、乱が生じるでしょう。せめて母公の喪(も)のおすみになるまで、国内の充実にお心を傾けられてはどうですか」と、敢て苦言した。
甘寧は、さえぎって、
「それ故に、国家は今、蕭何(しょうか)の任を、ご辺に附与するのである。乱を憂えられるなら、よく国を守って、後事におつくしあるようねがいたい」
「すでにわが心は決まった。張昭も他事をいうな。一同して、盃を挙げよう」
孫権は、一言をもって、衆議を抑えた。
そして、また甘寧にむかい、
「其方をさし向けて、黄祖を討つことは、例えばこの酒の如しじゃ。一気に呑みほしてしまうがよい。もし黄祖を破ったら、その功は、汝のものであるぞ」
と、盃になみなみと酒をたたえて与えた。
かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董襲、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏へおしよせた。(196話)
―次週へ続く―