さてまた夏侯惇は、口ほどもない大敗を喫して、命からがら都へ逃げ上り、みずから面縛して――死を待つ意味で罪人のように眼隠しをほどこし――畏(おそ)る畏る相府の階下にひざまずいた。
(面目なくて会わせる顔もありません)といわぬばかりな姿である。
曹操は出座して、それを見ると苦笑した。
「あれを解いてやれ」と、左右の者へ顎でいいつけ、階を上がることをゆるした。
夏侯惇は、庁上に慴伏(しょうふく)して、問わるるまま軍(いくさ)の次第を報告した。
「何よりの失策は、敵に火計のあることをさとらず、博望坡(はくぼうは)をこえて、渓林のあいだへ深入りしすぎた一事でございました。ために丞相の将士を数多(あまた)うしない、罪万死に値します」
「幼少より兵学を習い、今日まで幾多の戦場を往来しながら、狭道には必ず火攻めのあることぐらい気づかないで軍の指揮ができるか」
「今さら、何の言い訳もございません。于禁はそれをさとって、それがしにも注意しましたが、後悔すでに及ばなかったのであります」
「于禁には大将軍たる才識がある。汝も元来の凡将ではない筈。この後の機会に、今日の恥をそそぐがよい」と叱ったのみで、深くも咎めなかった。
その年の七月下旬。
曹操は八十余万の大軍を催し、先鋒を四軍団にわかち、中軍に五部門を備え、後続、遊軍、輜重(しちょう)など、物々しい大編制で、明日は許都を発せんと号令した。中太夫孔融は、前の日、彼に諫めた。
「北国征略のときすら、こんな大軍ではありませんでした。かかる大動員をもって大戦にのぞまれなば、おそらく洛陽、長安以来の惨禍を世に捲き起しましょう。
さる時には、多くの兵を損い、民を苦しめ、天下の怨嗟は挙げて丞相にかかるやも知れません。なぜならば、玄徳は漢の宗親、なんら朝廷に反(そむ)いたこともなく、また呉の孫権たりといえど、さして不義なく、その勢力は江東江南六郡にまたがり、長江の要害を擁しているにおいては、いかにお力をもってしても……」
「だまれ。晴れの門出に」
曹操は叱って、「なお申さば、斬るぞ」と、一喝に退けてしまった。
孔融は、慨然(がいぜん)として、府門を出ながら、
「不仁を以て仁を伐つ。敗れざらんや。ああ!」
と、嘆いて帰った。
附近にたたずんでいた厩の小者が、ふと耳にして、主人に告げ口した。その主人なる男は日頃、孔融と仲のわるい?慮だったから、早速、曹操にまみえて、輪に輪をかけて讒言(ざんげん)した。
些細なことをとらえて、棒ほどに訴える。そして、主たる位置にある人の誇りと弱点につけこむ。讒者(ざんしゃ)の通有手段である。
そんな小人の舌に乗せられるほど曹操は甘い主君では決してない。けれど、どんな人物でも、大きな組織のうえに君臨していわゆる王者の心理となると、立志時代の克己や反省も薄らいでくるものとみえる。人間通有の凡小な感情は、抑えてのないまま、かえって普通人以上、露骨に出てくる。
無能な小人輩は、甘言と佞智(ねいち)をろうすことを、職務のように努めはじめる。
曹操のまわりには、つねに苦諫(くかん)を呈して、彼の弱点を輔佐する荀?のような良臣もいたが、その反対も当然多い。
「どうも孔融は、丞相にたいして、お怨みを抱いているようです。……昨夕も退庁の際、ひとり言に、不仁を以て仁を伐つ、敗れざらんや――などと罵って帰りましたし、日頃の言行に照らしても、不審のかどがいくらもありますし」
讒者は、弁をふるって、日頃から胸にたたんでおいた材料を、舌にまかせて並べたてた。
「――いつでしたか、丞相が禁酒の法令を発しられましたときも、孔融は笑って、天に酒旗の星あり、地に酒郡あり、人に喜泉(きせん)なくして、世に何の歓声あらん。民に酒を禁じるほどなら、今に婚姻も禁じるであろう、などと途方もない暴説を吐いておりましたし」
「…………」
「また。あの孔融はですね。ずっと以前ですが、朝廷の御宴(ぎょえん)の折、赤裸になって丞相を辱めた禰衡(ねいこう)――あの奇舌学人とは――古くから親交がありまして、禰衡にあんな悪戯(わるさ)をさせたのも、後で聞けば、孔融の入れ智慧だったということです」
「…………」
「いえ、まだまだ、それのみではありません。彼は荊州の劉表とは、ずいぶん以前から音信を交わしております。また玄徳とは、わけても昵懇(じっこん)と聞いておりますゆえ、この辺の虚実は彼の邸を、突然襲って家探ししてごらんになれば、きっと意外な証拠が現れるのではないかと思われます。――明日、荊州へご発向の前に、ぜひその一事は、明らかに調べてご出陣ありますように」
「…………」
かなり長いあいだしゃべらせておいた。曹操は一語も発せずにいたが、非常にいやな顔つきをしていた。そして聞くだけ聞き終るといきなり、
「うるさい、あっちへ行け」
と、顎をあげて、蠅のように、その家臣を目さきから追い払った。
さすがに、讒者(ざんしゃ)の肚(はら)を、観破したのかと思うと、そうでもない。いや、その反対だったのである。 たちまち廷尉を呼んで、
「すぐ行け」と、何かいいつけた。
廷尉は、一隊の武士と捕吏をひきつれ、不意に孔融の邸を襲った。
孔融は、なんの抵抗をするまもなく、召捕られた。
召使いのひとりが奥へ走って、
「たッ、大変ですっ。ご父君にはいま、廷尉に捕縛されて、市へひかれて行きました!」
と、そこにいる孔融の息子たちへ、哭(な)き声で知らせた。
二人の息子は、碁を囲んで遊んでいたが、すこしも驚かず、
「――巣すでに破れて、卵の破れざるものあらんか」
と、なお二手(ふたて)三手(みて)をさしていた。
もちろん、たちまち踏みこんできた捕吏や武士の手にかかって、兄弟とも斬られてしまった。 邸は炎とされ、父子一族の首は市に梟(か)けられた。
荀?は、後で知って、
「どうも、困ったものです」と、苦々しげに云ったきりで、いつもの如く、曹操へ諫言はしなかった。諫言も間に合わないし、また無言でいるのも、一つの諫言になるからであろう。(203話)
ー 次週に続く ー