紀元前154年、呉楚七国の乱が平定されると呉国は廃止され、漢朝直轄地の??会稽郡となります。
??現代の中国の地図に、会稽郡の範囲?を?大雑把に描いてみました。だいたい今の江蘇省の南部と????浙江省?の全域が該当します。
その行政区画が280年くらい続いた後、紀元129年(ようやく紀元前じゃなくて紀元後に入りました!)に?会稽郡の北部(今の江蘇省南部と浙江省の最北部)が呉郡として独立します。
ちょっと紛らわしいのですが、呉郡の中に呉県があり、この呉県が今の蘇州にあたります。そう言えば、これまで書くのを忘れてしまったのですが、蘇州という地名はまだこの頃には登場していません。
更に紛らわしいことに、呉郡や会稽郡?などを含む6つの郡を当時はまとめて揚州と呼んでいました。
当時は中国全域(あくまで当時の全域なので広東省、チベット、新疆などは含まず)を九州?という9個の州に分ける風習があり、揚州はそのひとつです。
なるほど、中国の町を歩いていると、妙に「九州」という字が書かれた看板とかを見かけるのですが、これって福岡県とか熊本県のことじゃなくて、「中国全土」という意味だったのですね。
で、揚州ですが、現在では江蘇省に13ある市のひとつで、蘇州と同格なのですが、当時は呉郡よりも上の概念だったわけです。
紛らわしいなぁ。
?呉郡が成立してしばらくすると、漢はだいぶ衰えるようになります。
そんな中で呉郡の富春県(現在の浙江省杭州の一部)から??孫堅?という武将が登場します。
ここから三国志の話に入るのですが、三国志については詳しい文献がいくらでもあるので、ごく簡単にしか触れません。三国志ファンのみなさん、ごめんなさい。
?孫堅は172年に?会稽郡で起きた反乱を鎮圧して頭角を現しました。
漢の衰えから、当時は漢からの独立を企てる反乱がたくさん起きるようになっていたのです。
彼は184年の黄巾の乱でも鎮圧軍の一員として活躍。
その後は実権を握った??董卓に対して、袁紹・袁術らによる反乱軍が結成され、孫堅はその一員となります。
反乱軍は?191年の?陽人の戦い?で、??董卓を洛陽から長安へ撤退させるなど善戦したものの、そのうちに袁紹と袁術が対立するようになり?ました。
??孫堅は??袁術の配下として、192年に袁紹と同盟を結ぶ劉表を討とうとするのですが(襄陽の戦い)、ここで戦死してしまいます。
??孫堅の軍は??袁術軍に吸収されるのですが、194年に当時まだ19才だった息子の孫策がこれを引き継ぎ、徐々に勢力を拡大します。
当時、郡の長は「??太守」、その上の州の長は「????刺史」?と呼ばれていました。
? 孫策は揚州刺史の??劉?(りゅうよう)、呉郡太守の??許貢(きょこう)、会稽太守の??王朗?(おうろう)に195年から199年にかけて次々と戦いを挑み、彼らを打ち破って、これらの土地を実質的に支配しました。
本来、?太守や刺史は朝廷から任命されるもので、彼らを勝手に打ち破って後釜に座ることなどできないはずですが、当時の漢朝には、もはや都から遠く離れた揚州まで討伐軍を派遣する力はなかったのです。
しかし、劉?も許貢も王朗も戦死したわけではなく、生き延びていました。
呉郡の都である呉県(蘇州)を追い出された許貢は、呉郡の南方(現在の浙江省湖州市)で暮らしていましたが、200年に「孫策が勢力を伸ばすのは漢朝に対する脅威であり、対策を打つべき」との手紙を朝廷に書きました。
これが??孫策にバレて、??許貢は処刑され?るのですが、これを恨みに思う許貢の部下達によって孫策は暗殺されてしまいます。
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