200年に孫策が暗殺されたことにより、後を継いだのが、当時まだ19歳だった弟の孫権です。孫権の日本語での読み方は「そんけん」で父・孫堅と同じなのでとっても紛らわしいのですが、中国語の読み方では父・孫堅は「スンジアン」、息子・孫権は「スンチュアン」です。
兄から地盤を継いだ孫権は、他地方の有力者である曹操・劉備とある時は同盟し、ある時は敵対しながら徐々に地盤を固めていくわけですが、面倒なので詳細は三国志を読んで下さい(笑)
曹操・劉備・孫権の中で最も勢力が強かったのは曹操です。
彼は216年に後漢の献帝から「魏王」の称号を与えられました。
この段階では魏が後漢から独立したわけではなく、あくまでも国のトップは後漢の皇帝であり、その下の地方の有力者の中から皇帝が認めた者が地方政権の王に任じられるというスタイルです。
しかし、220年に曹操が死去すると、後を継いだ息子・曹丕(そうひ)は献帝に退位を迫り、禅譲させることに成功します。
こうして400年以上続いた漢王朝は滅亡します。
自らを漢の正統な後継者と考えていた劉備はこれを不服として、自ら蜀(正式名称は蜀漢)の皇帝に就きます。
しかし、孫権はこの時は一旦、この時点で魏に反抗するのは得策ではないと考え、曹丕の皇帝就任を承認しています。
これは孫権が曹丕の配下に入ることを意味します。
曹丕は孫権を自らの配下の地方政権の長として認定し、孫権を「呉王」に任命します。
222年、孫権は形ばかりの魏への従属から離れ、黄武という独自の元号を使い始めます。これが一般には呉の正式な建国とされています。それまでの魏の地方政権としての呉から独立国家としての呉になったわけです。但し、孫権が正式に呉の皇帝に即位したのは229年になってからのことです。
前にも書きましたが、春秋時代の呉が滅んだ後もこの地方は呉と呼ばれ、この地方に国家が興る旅に呉と名乗って来ました。この為、呉という名前の国がたくさんあって紛らわしいので、後世では孫権の呉のことを「孫呉」とか「東呉」とか「三国呉」とか呼びます。
蘇州の各地に「東呉麺館」という蘇州麺のチェーン店があるのですが、この東呉が三国志の呉を指しているわけです。
ただ、どうして三国時代の呉が「東の呉」と呼ばれるのかわかりません。
後述のように、三国時代の呉は、かつての呉の都である蘇州よりも西にある南京を都にしているんですよ。
だったら「西の呉」じゃないの??
孫権の元々の本拠地は杭州なのですが、その後、蘇州や鎮江など何度か本拠地を変えており、最終的には211年に南京(当時の名称は建業)に落ち着きます。
蘇州に拠点を置いていた期間が短いので、蘇州人たちは三国呉には大した思い入れを持っていないようで、蘇州人の中では「呉」と言えば春秋時代の呉を指すようです。
その後、南京は中国の南の中心地として発展し、それ以降に中国南部に都を置く時には南京が選ばれるようになり、蘇州は政治の中心地としての出番は少なくなります。
一方で、蘇州は文化の中心地として栄えるわけですが、そのきっかけを作ったのも孫権でした。
孫権は母の恩に報いるべく、蘇州に彼女の為の邸宅を建築します。
後に彼女がその邸宅を寄進し、通玄寺というお寺になりました。
このお寺が後年、母の恩に報いるという建築動機から報恩寺と改名しました。
法恩寺の敷地には12世紀に北寺塔(正式名称は万歳搭)という塔が建てられ、蘇州のシンボルとなりました。
今では蘇州のシンボルの座は東方之門に取られた感がありますが、北寺塔も十分な存在感を保っています。
孫権は252年に崩御します。
その後、呉の皇帝は孫亮(そんりょう)→孫休(そんきゅう)→孫皓(そんこう)と推移します。
一方の魏では司馬一族の勢力が強くなり、司馬昭(しばしょう)の指導の下で263年に蜀を滅ぼすことに成功。
司馬昭は間もなく病死しますが、後を継いだ司馬炎(しばえん)が265年に魏の皇帝・元帝から禅譲を受けました。
こうして魏が終焉を迎えて晋へと変わります。
晋は280年に呉に戦争を仕掛け、これに敗北した呉が降伏したことにより滅亡。
三国時代は終焉し、中国は再び晋という統一国家の時代に入ります。
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