とても真面目な学生が真剣な表情で訴える、私は日本人らしい日本語を話したいのです、と。
私はとても違和感があった。彼女の気持ちはわからなくはない。発音やアクセントを正確に身につけたいと言うことなのだろう。彼女の真面目な性格に由来しているのだろう。
しかし、どうもこれは彼女に限ったことではないようだ。何人もの学生が日本人のように日本語を話したいと言う。
私は、先の彼女に、こう言った、あなたにとって日本語は母語ではないのだから、発音やアクセントと多少不自然なところがあっても、意味が通じればいいのではない。日本人と同じようにならなくてもいいのではない、と。彼女は納得できない顔をしていた。
私の中には、かつて、日本人が朝鮮人から言葉や文化を奪い同化を迫った歴史への思いがある。朝鮮人に限ったことではない。日本人、和民族?大和民族?は絶えず他民族を侵略しては、同化を迫った。だから、日本人にするため、あるいは日本人に都合のいいようにするために日本語を教えるのはいやなのだ。
ところが、ここ大連では嫌でも現実を見せつけられる。
まず、驚いたのは、日本の大手企業のコールセンターつまり、電話で注文や苦情を受け付けるシステムだが、なんと、ここ大連で日本語を学んだ中国人が電話を受ける仕事をしているというのだ。まったく知らなかった。電話をかけてくる人も、まさか、自分の電話が大連で中国人が受けているとは微塵も思わないだろう。
そして、そういう実態のなかで、ごく善良でまじめな日本人もいつのまにか日本人特有の傲慢さをあますことなく発揮してしまうところだ。
先日、日本語教師の集まりに参加したが、そこで交わされた言葉は、初級から中級へ、中級から上級へ、そしネイティブに、である。そこには、異文化を理解し合う観点はなく、ひたすら、中国人に「言葉」の同化を求め日本人ビジネスに貢献させようと真面目に取り組んでいる日本人教師の姿があった。
なるほど、真面目に就職を考えている中国人学生は、言葉の上で日本人になることを求められるのだ。中国人に日本語を教える以前に、日本人にこそ多文化理解を一から教えなければならないのではないだろうか。中国人に日本語を教えることは、中国の文化や習慣を学ぶことであり、決して、同化を求めることではないのだと。
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