田成方先生の
《從新出文字材料論楚沈尹氏之族屬源流》
http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=866
という論文を読み、その主張について勝手にまとめました。
かなり、かいつまんでまとめましたが……それでも膨大な長さに……
自分用なので勝手に色分けさせていただいてます……
もちろん中身の主張は変えておりません!
訳も不自然でこそあれ間違ってはいないはず!
左伝ファンじゃないとこの記事にたどり着かないだろうから
あまり心配はしてないですが……
伝世文献では、沈尹戌=楚荘王の曽孫。
つまり沈尹氏は荘王の子孫ということになっていました。
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1.出土資料上の沈尹の官と沈尹氏
楚には沈尹という官職があり、
その設置は近隣の徐国にも影響を与えた(徐にも沈尹という官がある)。
楚の沈尹は大室に支える王官であり、楚王が直接支配する。
その下に右沈、左沈などの副官がつく。
沈尹の設置時期は春秋晩期以前。前316年まで存在していた。
沈尹(沈とも)は氏族名でもあり、楚には沈尹氏という氏族もあった。
沈尹が官名でも氏族名でもあるというのは
《元和姓纂》などの“沈尹氏以官為氏”という記述とも一致する。
2.楚の沈尹氏の出自に関する諸問題の分析
■沈尹氏の始封時期の推測
沈尹氏は“官有世功”*によって分封された“官族”。
*:《左伝》隠公八年魯国大夫衆仲云:官有世功,則有官族,邑亦如之。
沈尹氏の出自が楚荘王であるという説は、漢晋の注疏が初め。
《左伝》杜預注、《潜夫論》巻9《志氏姓》は
沈尹戌が楚荘王の曽孫であるとする。
《呂氏春秋》の高誘注は沈尹戌を荘王の孫としているが、
高注は“曽”の字が誤って抜けてしまったものと考えられる。
唐の林宝《元和姓纂》は沈尹氏と沈氏を異姓の宗族とし、
沈尹氏は“沈尹,楚有沈尹戌……子孫以官為氏”、
沈氏は“周文王第十子?食采于沈,因氏焉”とする。
《左伝》宣公十二年(前597)、晋と楚の?の戦いにおいて、
沈尹が中軍を率い、当時の令尹は孫叔敖だった。
《呂氏春秋》などの文献によると、
沈尹は孫叔敖の前の令尹で、位を叔敖に譲っている。
二人の事績は秦漢の著作によく見られる。
《墨子》には“楚荘染于孫叔敖、沈尹”とあり、
《呂氏春秋》にも沈尹が孫叔敖を令尹に推挙した話が複数あり、
《新序》にも同様の記述がある。
上博楚簡六《荘王既成》篇では荘王が覇を唱えたあと
(楚が宋を降したあとのことで、前594〜591年頃)、
子孫が覇業を保つ方法を沈尹子?に尋ねている。
伝世文献・出土文献とも
楚荘王の時代に一人の賢臣がいたことを示している。
《呂氏春秋》はその名を蒸、巫、莖、筮などとし、
《新序》は沈尹竺とするが、
これらは同じ文字が変化して伝わったものだという。
《荘王既成》簡2から判断すると、
元の字は莖か?である可能性が高い。
しかし子?は沈尹の字であり名前ではない*。
*:楚人の名前・字の違いは何浩《“王子某”、“楚子某”與楚人的名和字》を参照。
《江漢論壇》、1993年第7期所収。
《左伝》には子?の記述は二箇所しかなく、?の戦いと、
成公七年に沈尹が子重・子反と屈氏の財産を分割した話のみで、
話の間は13年しか空いていない。
《左伝》が人物を記すとき、氏のみを記す例はとても少ない。
したがって“沈尹將中軍”、“沈尹與王子罷分子蕩之室”
などの文に出てくる沈尹とは子?の官職だろう。
対して官名を名前代わりに記すことは伝世文献ではよく見られる。
《左伝》成公十六年:“楚子(共王)救鄭。司馬將中軍,令尹將左,右尹子辛將右。”
の司馬・令尹などの官職は貴族を指している。
子?は文献上で最も初めに見られ、最も著名で、
唯一確実な沈尹の官の人間である。
しかし沈尹は荘王の時代に活躍したというだけで、
出自が荘王だという根拠はない。
【武漢大學?史學院?史地理研究所】の研究では
沈尹子?を楚穆王の息子と考えており、
子重、子反らのように荘王の兄弟と見なす。
以下、根拠3つ
1:荘王時代の重臣、子重、子反は穆王の子
前605年、楚荘王が若敖氏を滅ぼしたあと、
子?、子重、子反の3人が荘王晩期〜共王期の軍権を掌握。
前597年、3人は?の戦いで三軍の統帥となる。
前584年、3人は子閻、子蕩ら屈氏の貴族の財産を分割し、
楚における屈巫一族の勢力を一掃。
若敖氏が族滅されたあと、楚王族の本家は中央権力の支配を強化し、
分家の力はきわめて弱体化する。
子?ら3人は当時の楚王族本家を代表する人物。
2:令尹を務めた子?は?姓貴族の可能性がある
春秋時代、令尹の職は?姓の貴族が独占した(彭仲爽を除く)。
王室以外の令尹は闘、成、?、屈の四大公族からしか出ていない。
闘氏、成氏は子?の時代既に族滅されている。
孫叔敖は?敖であり、子?とは別の一族。
子?は屈氏の財産を分割しているので、屈巫の一族であるはずがない。
したがって子?は楚王室の構成員である可能性が最も高い。
文献上の子?の官職、字は王子や王孫の身分に合致する。
3:子?が令尹だったのは荘王時代中期で、二人の年齢差は小さい
楚王の在位時、その子が令尹だった例はないため
子?は荘王の子ではない。
孫叔敖・子?は楚人にとって徳が高く人望があり、
荘王は二人に恭しく振る舞っている。
子?以後、《左伝》に記述のある沈尹氏は7人。
沈尹寿、沈尹射、沈尹赤、沈尹戌、沈(尹)諸梁、(沈尹)後臧、沈尹朱。
沈尹赤、沈尹射は昭公五年・楚霊王の呉侵攻に参加しており、
2人同時に活動していながら2人とも沈尹の官ということは
ありえないので
*、少なくとも1人は沈尹氏を称している。
*:尹宏兵《楚沈尹戌族氏族屬考》では、2人とも中央の官僚であるので、
中央機関に2人の沈尹が同時に存在することはありえないと論証している沈尹戌、赤、射の活動時期は近い。
昭公二十七年、三十年、三十一年に“左司馬沈尹戌”と記されているので
沈尹は戌の氏族名であり、左司馬がその官職。
沈諸梁と弟の後臧は、漢晋の注疏によると戌の子。
沈諸梁より後に出てくる沈尹朱は、清の陳厚耀によると射の子。
・射、赤のうち一人は沈尹氏
・沈諸梁と後臧は戌の子なので、父子3人は沈尹氏の一族
・朱が射の子であるなら、沈尹一族の可能性がある
・沈尹寿は《左伝》襄公二十四年に見られるのみで、族系は不明
沈尹氏早期の世系は明らかではないが、
沈尹赤・射の時代(約前540)には
沈尹一族は既に存在していたと推測される。
具体的な始封時期はさらに早く、前6世紀前半頃と思われる。
■沈尹の官の職能探究甲骨文の“沈”の字は水の中に牛が書かれている形。
沈とは牛や羊を沈める祭祀の名前。
楚簡の沈字も右側上部に牛の角の形が残っているので
甲骨文字と関係がある可能性がある。
沈尹という官名も、
牛や羊を水中に沈めた古代の祭祀と関連しているかもしれない。
包山簡に見える“大室沈尹溺”(祭祀場所+官名+人名)は
国家の宗廟に仕え、祭祀に関わる聖職者だった。
《左伝》などの文献によると、沈尹には占いや予測の職能もあり、
一般的な貞卜と、賢才を探すための卜問をしていた。
天星観簡の
“邨沈尹過以漆蓍為君月貞”という祭祷簡の内容は
定期的な貞問であり、一般的な卜測。
賢才を推薦して将来を予測することも卜者の素質で、
沈尹氏や沈尹の官にはこういった文化的素養もある。
以下二点が根拠。
・《呂氏春秋》などに沈尹子?が孫叔敖を令尹に推挙した記述があり、
《荘王既成》篇では楚荘王が子?に楚の後事を尋ねている。
→沈尹子?には世の出来事を予知する能力がある
・《左伝》哀公十七年、楚が陳の麦を奪いに行く直前、
沈諸梁は楚恵王が令尹の人事を占いで選ぶ場面に参加している
→楚恵王が令尹を占う場面で、沈諸梁と沈尹朱は
卜問に参加した数少ない官吏だった
結論:
1.沈尹は大室にて祭祀・占卜を司る聖職者。
沈尹氏の子孫はその文化を受け継いでいる。
2.徐国は楚国の官職の影響を受けており、沈尹の職もあった。
3.沈尹子?は楚穆王の息子で、初めて沈尹の官となった者。
子孫は官名を氏として新しい氏族を作った。
始封時期はおおよそ前6世紀前半。
残る謎:
・春秋時代の沈尹の官職は世襲だったのか。
・沈尹氏初期の世系。
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論文の画像ではないのでここに徐国の文物貼ります。
左《義楚?》、中《徐王義楚?》、右《徐王?又?》。