2024/03/16 信濃毎日新聞
支援あるのは残留1世の母だけ 2世も老境、日々募る不安
上田市の宮下多美子さん(74)は、残留婦人だった母の松代(まつよ)さん(101)=旧小県郡武石村出身=と市営住宅で2人暮らしだ。毎晩1回は起きて、母の様子を見る。再び床に就いても眠れず、さえた目で夜を明かすこともある。
多美子さんが料理をしている時や、オンラインの日本語教室を受講している間も、松代さんがトイレに立つたびに慌てて駆け寄る。と言っても、自身も足腰を痛めている。「すぐは立てない。お母さんも転んじゃう時あるの」
1992年に一家で中国・天津から帰国。当時43歳だった多美子さんは中国での経験を生かし、65歳まで市内の病院で介護の仕事をし、父母の生活を支えた。結婚はしておらず、子どもはいない。近くに住む弟と一緒に両親を世話し、父も5年前に101歳で亡くなるまで面倒を見た。
多美子さんが日頃の悩みを打ち明ける場は少ない。日本語の日常会話は話せるが「たくさん分からないことがある」。例えばごみの日。資源回収が月1回あるが、いつなのか分からない。放送で流れているようだが聞き取れない。地域での交流も少ない。夏祭りでみこしを担ぐ子どもの姿を遠目に見ているだけだ。
将来のことも気がかりだ。年金は月に約6万円。生活保護の申請に行ったことがあるが、軽自動車を持っているため認められなかった。母を病院や風呂に連れて行くのに必要で手放せない。
残留日本人1世である母は、2008年に始まった帰国者への新支援制度によって満額の老齢基礎年金と給付金をもらえ、家計を支えている。自身にはそうした支援はない。「お母さんいなければ、どうするか」。持病を抱えるが、受診は控えている。温泉施設で月2回、深夜0時まで夜勤で掃除の仕事を続ける。
楽しみは、日本語を勉強することだ。上田日中友好協会が開く月2回の教室に参加し、県日中友好協会(長野市)がオンラインで開く教室でも学ぶ。「勉強、やめちゃえば忘れちゃう。元気なうちに、もうちょっと勉強したい」。6日、自宅を訪ねた記者が松代さんに、日本へ来たことは良かったか―と尋ねると、「うん、うん」とうなずいて返事をしてくれた。そんな母の様子を、多美子さんは優しい笑顔で見つめた。
残留日本人2世の帰国時の年齢は幅広いが、多くは中高年になってから。この2世世代が晩年を迎え始め、老後の生活に不安を抱えている。
昨年12月、飯田市で飯田日中友好協会が初めて開いた2世や3世の交流会。「年金は月2万円。ぎりぎりの生活をしている」「歩いて20分かけて買い物に行き、担いで持って帰る。一度行くと、3日くらい休んでいる」…。来日後の楽しみの一方、困り事や苦労が次々と挙がった。
「お母さんは若い時、苦労をした。幸せになってほしくて一緒に来た」。2世の女性は話した。そんな2世たちに「自己責任」を求めるばかりでいいか―。協会は、交流会で出た意見を県や県日中友好協会に届ける予定だ。「いろんな人たちの力を借りて考えたい」。どうすればより深く2世や3世の声に耳を澄ませられるか、事務局長の池田真理子さん(68)は思案する。
[中国残留日本人2世への国の帰国支援]
日本政府は中国残留日本人の帰国を巡り、2世については当初、20歳未満で未婚の場合しか国費での来日を認めなかった。1994年に要件を緩和し、65歳以上(現在は55歳以上)の残留日本人を扶養する場合は、成人か既婚の2世も国費による同伴帰国の対象とした。ただ対象は1世帯で、多くの2世は呼び寄せ家族として私費で来日。1世が先に帰国し、身元引受人や渡航費を確保してから呼び寄せるため、とりわけ年長の2世は帰国が遅れた。