20230822中日新聞
選べぬ進路 続いた苦難
ちょうど四十年前、中国残留孤児だった妻と二人の子どもを連れて来日し、日本国籍を取得した石川県加賀市の坂本文升(ぶんしょう)さん(84)の生まれは、戦時期に日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国(現中国東北部)だった。漢民族の父と満州民族の母のもとに生まれたが、父が旧満州国の警察官だったため、終戦直前に対日参戦したソ連軍におびえ、占領終了後も中国共産党に拒否された。戦争の影響で父の経歴が「汚名」のようにつきまとった。
坂本さんは一九三九年、中国最北端の黒竜江省にあり、「極東のパリ」とも称され洋館が立ち並ぶ町・ハルビンに生まれた。父は中国・山東省出身で警察署のコックだった。三一年の満州事変の翌年に日本がつくらせた旧満州国ができると、警察官として雇われた。満州国の政策方針の是非とは関係なく、生き続ける手段として選んだ道だったようだ。「幼い頃の記憶しかないが、手先が器用で優しかった」。母親はおしゃれ好き、ロシア風の意匠を誇るデパートによく連れて行ってくれた。
小学一年で六歳だった四五年八月、穏やかな暮らしが崩れた。町に空襲警報が鳴り響き、日本に原爆が落とされたことも知った。夏休みが終わると整理番号が刻まれた金属板が渡されると聞いた。「爆弾で死んでも身元が分かるようにするため。仮定の話が、幼くて臆病だった私にはとても恐ろしかった」と振り返る。
日本は国策として旧満州に開拓団約二十七万人を送り込むなど強い影響下に置いたが、敗戦とともに十三年間で崩壊。日本兵は日本の民間人も旧満州国に協力した中国人も残したまま立ち去り、侵攻した旧ソ連軍の略奪が始まった。「巨大な戦車による石畳の上でガラガラと耳をつんざくような音が今も離れない」
共産党が街を支配する中、いたるところに日本への協力者の氏名を記した布告が張り出され、銃殺が予告された。警察官として日本に協力せざるを得なかった過去を持つ父は名前を変え、丸刈りにし、みすぼらしい身なりで追及の目を逃れた。坂本さんも公園でやじ馬が詰めかけた中であった銃殺を目にした。ある時、坂本さんはもろこしの一種コーリャンを手に銃に見立てて父に近づき「パパ、銃殺。バーン」とふざけた。父親はしかることなく泣いた。今でもぬぐいきれない後悔だ。
戦後、父と母は別れ、坂本さんは母と暮らした。だが、父の経歴が影を落とす。中学生の時、共産党の青年団員になろうとしたが入団を拒まれた。高校生の時、共産党の思想に忠実になった母が、田舎に逃れた父と坂本さんとの文通を学校に密告する裏切りに遭った。「反共産主義者にならないためにと私を思った行動だったかもしれない。でも肉親に裏切られるつらさは誰にも分からない。怒りと涙でいっぱいだった」
人生を翻弄(ほんろう)し続けた旧満州国。「日本のあやつり人形だった。侵略によって元々住んでいた中国人を苦しめた。日本に協力的かどうかで同胞同士が憎み合う環境をつくったり、日本の残留邦人、孤児を生んだ」と坂本さん。一方で、「でも満州国がなかったら私は生まれていなかった。切り離して考えることもできない」と複雑な思いも抱える。
父の経歴が戦後、汚名のようにつきまとい、「進みたい道を通れない」状況に苦しんだ。「どうして」「なぜ」と父を恨んだこともあった。今、坂本さんは思う。「戦争が終わっても遺(のこ)された者の戦争は終わらない。子や孫のその後の人生を苦しめ、選択の道すら拒むのだ」 (久我玲)
「戦争が終わっても遺された者の戦争は終わらない」と語る坂本文升さん=石川県加賀市で(久我玲撮影)
「戦争が終わっても遺された者の戦争は終わらない」と語る坂本文升さん=石川県加賀市で(久我玲撮影)
3歳ごろの坂本文升さん(中)に寄り添い立つ満州国の警察官だった父(右)と母の家族写真=坂本文升さん提供
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「この流転の人生は何だったのか」。旧満州国(現中国東北部)で生まれ育ち、現地で警察官だった父が日本に協力した影響で苦難が続いた坂本文升(ぶんしょう)さん(84)=石川県加賀市=は中国残留孤児の妻と結婚し、日本へ移住、日本国籍を取得した。三年前に日本語でまとめた自分史はA4判五百ページの長文。「戦争のはざまで運命に翻弄(ほんろう)された。でも、私の人生も未来の日中交流には価値があるのかもしれない」と、戦禍が繰り返されないことを願う。(久我玲)
日本の敗戦から五カ月後の一九四六年一月、たばこ製造業を始めていた父が見知らぬ四人の女性を馬車に乗せて帰ってきた。旧満州に侵攻してきた旧ソ連軍の許可を得て仮設難民所から手伝いのために連れてきた日本人だった。食料不足と病気の流行で難民所では多くの栄養失調者が出ていた。坂本さんの母は一人の妊娠に気づき、妊婦の女性に料理店を経営する中国人の家庭を紹介した。無事出産させるためだった。
女性は娘を産み、中国人の理容師と結婚。娘は「美江(みえ)」と名付けられたが、日本人であることを隠すため「劉春玲(りゅうしゅんれい)」という中国名で暮らしていた。しかし、女性は美江さんが六歳のときに病死。養父も亡くなり、孤児となった美江さんを坂本さんの母が引き取った。坂本さんは生い立ちを詮索されない臨時工として建設現場などで働きつつ、七歳下の美江さんと兄妹のように暮らし、次第にひかれ合った。二人は六九年に結婚。坂本さん三十歳、美江さん二十三歳だった。美江さんは医師になり、二人の子どもに恵まれた。
日中国交回復後、坂本さんは日本政府が残留邦人の問題に取り組む話を耳にした。美江さんは「母や父が生まれた故郷の地を踏みたい」と願い、坂本さんも同行した。
八三年八月九日、同県小松市に住む妻のいとこに会うため、家族四人で日本行きの飛行機に乗り、そのまま永住した。「妻と子どもは日本国籍だが、私だけ中国籍。父の経歴のせいで屈辱的な扱いを受けた中国から逃れたかった。育った街を離れる寂しさもあったが、私の故郷は少年時代のハルビンだけだった」。六年後、日本国籍を取得した。
県内の化学工場や和菓子店、中国語の個人指導など、さまざまな職で生計を立てた。中国で医師だった美江さんはホテルの洗い場で働いた。四十年余り中国で暮らした二人にとって、日本での生活は言葉の壁がいつまでも立ちはだかった。
それでも四年前に亡くなった美江さんが生前書き残した手記にはこうある。「主人の強い生命力と凄(すご)い生活能力を持った私には心配事はありません」「不幸な戦争のために数百万人の優しい人の命も奪われたことを思うと人生はやはり運命だと思います。でも、私には立派な主人がいます。息子も社会人になりました。娘は今年国立大阪外国語大学を卒業します。今とても幸せだと思います」
二人の子どもは結婚、五人の孫ができた。残留孤児の妻と歩んだ人生に「運命の巡り合わせだった。つらいこと、うれしいこと、いっぱい共有した。今は寂しいけど、ありがとう」と坂本さん。自分史は当初中国語で書き、日本語への翻訳などに時間がかかり、日本語版完成までに二十年近くかかった。
運命に翻弄された人生だが、自分なりに切り開いてきた自負はある。「小説ではなく、真実で複雑な私の一生。優しい人もいじめる人も、日中双方のさまざまな市民の姿を描いたので、共鳴してくれる人がいるのではないか。互いを理解し合うための助けとなれば、と思う」。日本語への翻訳は、日中間の過去の過ちが再びないことを願いながらの日々だった。
日本に行くことが決まり、撮影した記念写真。
坂本文升さんと妻美江さん(後列)の前で2人の子どもが笑顔を見せる=1983年7月、中国ハルビンで(坂本さん提供)