孫策が非常にご機嫌だと思ったので、蒋林は訊かれもしないのに、なおしゃべっていた。
「――しかし、百万にの強兵があろうと、彼はまだ若い。若年の成功は得て思い上がりやすく、図に乗ってかならず蹉跌する。いまに何か内争を招き、名もない匹夫の手にかかって非業な終りを遂げるやも知れん。……などと曹操は、そんなこともいっていたと、朝廷の者から聞きましたが」
見る見るうちに孫策の血色は濁ってきた。身を起して北方をはったと睨み、やおら病牀をおりかけた。人々が驚いて止めると、
「曹操何ものぞ。瘡の癒えるのを待ってはいられぬ。すぐわしの戦袍やをこれへ持て、陣触れをせいっ」
すると張昭が来て、
「何たることです。それしきの噂に激情をうごかして、千金の御身を軽んじ給うなどということがありますか」と、叱るが如くなだめた。
そのところへ、遠く河北の地から、袁紹の書を持って、陳震が使いに来た。
ほかならぬ袁紹の使いと聞いて、孫策は病中の身を押して対面した。
使者の陳震は、袁紹の書を呈してからさらに口上をもって、
「いま曹操の実力と拮抗し得る国はわが河北か貴国の呉しかありません。その両家がまた相結んで南北から呼応し、彼の腹背を攻めれば、曹操がいかに中原に覇を負うとも、破るるは必定でありましょう」
と、軍事同盟の緊要を力説し、天下を二分して、長く両家の繁栄と泰平を計るべき絶好な時機は今であるといった。

孫策は大いに歓んだ。彼も打倒曹操の念に燃えていたところである。
これこそ天の引き合わせであろうと、城楼に大宴をひらいて陳震を上座に迎え、呉の諸大将も参列して、旺なもてなし振りを示していた。
すると、宴も半ばのうちに、諸将は急に席を立って、ざわざわとみな楼台からおりて行った。孫策はあやしんで、何故にみな楼をおりてゆくかと左右に訊ねると、近侍の一名が、
「于吉仙人が来給うたので、そのお姿を拝さんと、いずれも争って街頭へ出て行かれたのでしょう」
と、答えた。
孫策は眉毛をピリとうごかした。歩を移して楼台の欄干により城内の街を見下ろしていた。
街上は人で埋まっていた。見ればそこの辻を曲っていま真っすぐに来る一道人がある。髪も髯も真っ白なのに、面は桃花のごとく、飛雲鶴翔の衣をまとい、手には藜の杖をもって、飄々と歩むところ自から微風が流れる。
「于吉さまじゃ」
「道士様のお通りじゃ」
道をひらいて、人々は伏し拝んだ。香を焚いて、土下座する群衆の中には、百姓町人の男女老幼ばかりでなく、今あわてて宴を立って行った大将のすがたも交じっていた。
「なんだ、あのうす汚い老爺は!」
孫策は不快ないろを満面にみなぎらして、人をまどわす妖邪の道士、すぐ搦め捕ってこいと、甚だしい怒りようで、武士たちに下知した。
ところが、その武士たちまで、口を揃えて彼を諫めた。
「かの道士は、東国に住んでいますが、時々、この地方に参っては、城外の道院にこもり、夜は暁にいたるまで端坐してうごかず、昼は香を焚いて、道を講じ、符水を施して、諸人の万病を救い、その霊顕によって癒らない者はありません。そのため、道士にたいする信仰はたいへんなもので、生ける神仙とみな崇めていますから、めったに召捕ったりしたら、諸民は号泣して国主をお怨みしないとも限りませぬ」
「ばかを申せっ。貴様たちまで、あんな乞食老爺にたばかられているのかっ。否やを申すと、汝らから先に獄へ下すぞ」
孫策の大喝にあって、彼らはやむなく、道士を縛って、楼台へ引っ立ててきた。
「狂夫っ、なぜ、わが良民を、邪道にまどわすかっ」
孫策が、叱っていうと、于吉は水のごとく冷やかに、
「わしの得たる神書と、わしの修めたる行徳をもって、世人に幸福をわかち施すのが、なぜ悪いか、いけないのか、国主はよろしく、わしにたいして礼をこそいうべきであろう」
「だまれっ。この孫策をも愚夫あつかいにするか。誰ぞ、この老爺の首を刎ねて、諸民の妖夢を醒ましてやれ」
だが、誰あって、進んで彼の首に剣を加えようとする者はなかった。
張昭は、孫策をいさめて、何十年来、なに一つ過ちをしていないこの道士を斬れば、かならず民望を失うであろうといったが、
「なんの、こんな老いぼれ一匹、犬を斬るも同じことだ。いずれ孫策が成敗する。きょうは首枷をかけて獄に下しておけ」と、ゆるす気色もなかった。

孫策の母は、愁い顔をもって、嫁の呉夫人を訪れていた。
「そなたも聞いたでしょう。策が于道士を捕えて獄に下したということを」
「ええ、ゆうべ知りました」
「良人に非行あれば、諫めるのも妻のつとめ。そなたも共に意見してたもれ。この母もいおうが、妻の
そなたからも口添えして下され」
呉夫人も悲しみに沈んでいたところである。母堂を始め、夫人に仕える女官、侍女など、ほとんど皆、于吉仙人の信者だった。
呉夫人はさっそく良人の孫策を迎えに行った。孫策はすぐ来たが、母の顔を見ると、すぐ用向きを察して先手を打って云った。
「きょうは妖人を獄からひき出して、断乎、斬罪に処するつもりです。まさか母上までが、あの妖道士に惑わされておいでになりはしますまいね」
「策、そなたは、ほんとに道士を斬るつもりですか」
「妖人の横行は国のみだれです。妖言妖祭、民を腐らす毒です」
「道士は国の福神です、病を癒すこと神のごとく、人の禍いを予言して誤ったことはありません」
「母上もまた彼の詐術にかかりましたか、いよいよ以って許せません」
彼の妻も、母とともに、口を極めて、于吉仙人の命乞いをしたが、果ては、
「女童の知るところでない」と、孫策は袖を払って、後閣から立ち去ってしまった。
一匹の毒蛾は、数千の卵を生みちらす。数千の卵は、また数十万の蛾と化して、民家の灯、王城の燭、後閣の鏡裡、ところ、きらわず妖舞して、限りもなく害をなそう。孫策はそう信じて、母のことばも妻のいさめも耳に入れなかった。
「典獄。于吉をひき出せ」
主君の命令に、典獄頭は、顔色を変えたが、やがて獄中からひき出した道士を見ると、首枷がかけてない。
「だれが首枷をはずしたか」
孫策の詰問に典獄はふるえあがった。彼もまた信者だったのである。いや、典獄ばかりでなく、牢役人の大半も実は道士に帰依しているので、いたくその祟りを恐れ、縄尻を持つのも厭う風であった。

「国の刑罰をとり行う役人たるものが、邪宗を奉じて司法の任にためらうなど言語道断だ」
孫策は怒って剣を払い、たちどころに典獄の首を刎ねてしまった。また于吉仙人を信ずるもの数十名の刑吏を武士に命じてことごとく斬刑に処した。
ところへ張昭以下、数十人の重臣大将が、連名の嘆願書をたずさえて、一同、于吉仙人の命乞いにきた。孫策は、典獄の首を刎ねて、まだ鞘にも納めない剣をさげたまま嘲笑って、
「貴様たちは、史書を読んで、史を生かすことを知らんな。むかし南陽の張津は、交州の太守となりながら、漢朝の法度を用いず、聖訓をみな捨ててしまった。そして、常に赤き頭巾を着、琴を弾じ、香を焚き、邪道の書を読んで、軍に出れば不思議の妙術をあらわすなどと、一時は人に稀代な道士などといわれたものだが、たちまち南方の夷族に敗られて幻妙の術もなく殺されてしまったではないか。要するに、于吉もこの類だ、まだ害毒の国全体に及ばぬうちに殺さねばならん。――汝ら、無益な紙筆をついやすな」
頑として、孫策はきかない。すると、呂範がこうすすめた。
「こうなされては如何です。彼が真の神仙か、妖邪の徒か、試みに雨を祈らせてごらんなさい。幸いにいま百姓たちは、長い旱に困りぬいて、田も畑も亀裂している折ですから、于吉に雨乞いのいのりを修させ、もし験しあれば助け、効のないときは、群民の中で首を刎ね、よろしく見せしめをお示しになる。その上のご処分なら、万民もみな得心するでしょう」(161話)

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