山はところどころ紅葉して、郊外の水や道には、翻々、枯葉が舞っていた。
赤兎馬はよく肥えていた。秋はまさに更けている。
「……はて。呼ぶものは誰か?」 関羽は、駒をとめた。
「……おおういっ」という声――。秋風のあいだに。
「さては! 追手の勢」
関羽は、かねて期したることと、あわてもせず、すぐ二夫人の車のそばへ行った。
「扈従の人々。おのおのは御車をおして先へ落ちよ。関羽一人はここにあって路傍の妨げを取り除いたうえ、悠々と、後から参れば――」
と、二夫人を愕かさぬように、わざとことば柔らかにいって駒を返した。
遠くから彼を呼びながら馳けてきたのは、張遼であった。張遼は引き返してくる関羽の姿を見ると「雲長。待ちたまえ」と、さらに駒を寄せた。
関羽はニコッと笑って、
「わが字を呼ぶ人は、其許のほかにないと思っていたが、やはり其許であったか。 待つことかくの如く神妙であるが、いかにご辺を向けられても、関羽はまだご辺の手にかかって生捕られるわけには参らん。さてさて辛き御命をうけて来られたもの哉――」と、はや小脇の偃月刀を持ち直して身がまえた。
「否、否、疑うをやめ給え」と、張遼はあわてて弁明した。 「身に甲を着ず、手に武具をたずさえず――拙者のこれへ参ったのは、決して、あなたを召捕らんがためではない。やがて後より丞相がご自身でこれに来られるゆえ、その前触れにきたのでござる。曹丞相の見えられるまで、しばしこれにてお待ちねがいたい」
丞相ご自身が来られるゆえ、その前触れに参った
「なに。曹丞相みずからこれへ参るといわれるか」
「いかにも、追っつけこれへお見えになろう」
「はて、大仰な」
関羽は、何思ったか、駒をひっ返して覇陵橋の中ほどに突っ立った。
張遼は、それを見て、関羽が自分のことばを信じないのを知った。

彼が、狭い橋上のまン中に立ちふさがったのは、大勢を防ごうとする構えである。――道路では四面から囲まれるおそれがあるからだ。
「いや。やがて分ろう」
張遼は、あえて、彼の誤解に弁明をつとめなかった。まもなく、すぐあとから曹操はわずか六、七騎の腹心のみを従えて馳けてきた。それは許?、徐晃、于禁、李典なんどの錚々たる将星ばかりだったが、すべて甲冑をつけず、佩剣のほかはものものしい武器をたずさえず、きわめて平和な装いを揃えていた。
関羽は、覇陵橋のうえからそれをながめて、
「――さては、われを召捕らんためではなかったか。張遼の言は、真実だったか」
と、やや面の色をやわらげたが、それにしても、曹操自身が、何故にこれへ来たのか、なお怪しみは解けない容子であった。
――と、曹操は。
はやくも駒を橋畔まで馳け寄せてきて、しずかに声をかけた。
「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」
関羽は、聞くと、馬上のまま慇懃に一礼して、
「その以前、それがしと丞相との間には三つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」
「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して昔日の約束を違えんなどとは考えていない。……しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」
「鴻恩、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく……ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各?とざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」
「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、牌をかけおいたのは予の科である。――否、自分の小心のなせる業と明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」
「なんの、なんの、丞相の寛濶な度量は、何ものにも、較べるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」
「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も潔い。……おお、張遼、あれを」
と、彼はうしろを顧みて、かねて用意させてきた路用の金銀を、餞別として、関羽に贈った。が関羽は、容易にうけとらなかった。
「滞府中には、あなたから充分な、お賄いをいただいておるし、この後といえども、流寓落魄貧しきには馴れています。どうかそれは諸軍の兵にわけてやってください」
しかし曹操も、また、
「それでは、折角の予の志もすべて空しい気がされる。今さら、わずかな路銀などが、君の節操を傷つけもしまい。君自身はどんな困窮にも耐えられようが、君の仕える二夫人に衣食の困苦をかけるのはいたましい。曹操の情として忍びがたいところである。君が受けるのを潔しとしないならば、へ路用の餞別として、献じてもらいたい」と強って云った。
関羽は、ふと、眼をしばたたいた。二夫人の境遇に考え及ぶとすぐ断腸の思いがわくらしいのである。
「ご芳志のもの、二夫人へと仰せあるなら、ありがたく収めて、お取次ぎいたそう。――長々お世話にあずかった上、些少の功労をのこして、いま流別の日に会う。……他日、萍水ふたたび巡りあう日くれば、別にかならず余恩をお報い申すでござろう」
彼のことばに、曹操も満足を面にあらわして、
「いや、いや、君のような純忠の士を、幾月か都へ留めておいただけでも、都の士風はたしかに良化された。また曹操も、どれほど君から学ぶところが多かったか知れぬ。――ただ君と予との因縁薄うして、いま人生の中道に袂をわかつ。――これは淋しいことにちがいないが、考え方によっては、人生のおもしろさもまたこの不如意のうちにある」
と、まず張遼の手から路銀を贈らせ、なお後の一将を顧みて、持たせてきた一領の錦の袍衣を取寄せ、それを関羽に餞別せん――とこういった。

「秋も深いし、これからの山道や渡河の旅も、いとど寒く相成ろう。……これは曹操が、君の芳魂をつつんでもらいたいため、わざわざ携えてきた粗衣に過ぎんが、どうか旅衣として、雨露のしのぎに着てもらいたい。これくらいのことは君がうけても誰も君の節操を疑いもいたすまい」
錦の抱を持った大将は、直ちに馬を下りて、つかつかと覇陵橋の中ほどへすすみ、関羽の駒のまえにひざまずいて、うやうやしく錦袍を捧げた。
「かたじけない」 関羽はそこから目礼を送ったが、その眼ざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかとなお充分警戒しているふうが見えた。
「――せっかくのご餞別、さらば賜袍の恩をこうむるでござろう」
そういうと、関羽は、小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべてその薙刀形の刃さきに、錦の袍を引っかけ、ひらりと肩に打ちかけると、
「おさらば」と、ただ一声のこして、たちまち北の方へ駿足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。
「見よ。あの武者ぶりの良さを――」
と、曹操は、ほれぼれと見送っていたが、つき従う李典、于禁、許楮などは、口を極めて怒りながら、
「なんたる傲慢」
「恩賜の袍を刀のさきで受けるとは」
「丞相のご恩につけあがって、すきな真似をしちらしておる」
「今だっ。――あれあれ、まだ彼方に姿は見える。追いかけて! ……」
と、あわや駒首をそろえて、馳けだそうとした。
曹操は、一同をなだめて、
「むりもない事だ。関羽の身になってみれば、――いかに武装はしていなくとも、こちらはわが麾下の錚々たる者のみ二十人もいるのに、彼は単騎、ただひとりではないか。あれくらいな要心はゆるしてやるべきである」
そしてすぐ許都へ帰って行ったが、その途々も左右の諸大将にむかって、
「敵たると味方たるとを問わず、武人の薫しい心操に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう。其方たちも、この世でよき人物に会ったことを徳として、彼の心根に見ならい、おのおの末代にいたるまで芳き名をのこせよ」と、訓戒したということである。

このことばから深くうかがうと、曹操はよく武将の本分を知っていたし、また自己の性格のうちにある善性と悪性をもわきまえていたということができる。そして努めて、善将にならんと心がけていたこともたしかだと云いえよう。(154話)

―次週へ続く―