二夫人の使いをうけた関羽は、わき目もせず寮へ帰って行った。そして内院へ伺ってみると、二夫人は抱き合って、なお泣き濡れていた。
「どうなされたのでござる。何事が起ったのですか」
関羽がたずねると、糜夫人と甘夫人は、初めて相擁していた涙の顔と胸を離し合って、
「オオ関羽か。……どうしましょう。もう生きているかいもない。いっそのこと死のうかと思うたが、将軍の心に諮ってみてからと、そなたを待っていたところです」
と、共々に、慟哭した。
関羽は、おどろいて、
「死のうなどとは、滅相もないご短慮です。関羽がおりますからには、いかなる大難が迫ろうとも、お心やすく遊ばしませ。まずその仔細をおはなし下されい」と、なだめた。
ようやく、すこし落着いて、糜夫人がわけを語りだした。聞いてみると、なんのことはない、糜夫人が今日うたた寝しているうち、夢に、玄徳の死をありありと見たというのであった。
「あははは、何かと思えば夢をごらんになって劉皇叔のお身の上に、凶事があったものと思いこんでいらっしゃるのですか。どんな凶夢でも夢はどこまでも夢に過ぎません。そんなことで嘆き悲しむなど、愚の骨頂というものです。およしなさい およしなさい」
関羽は打ち消して、しきりと陽気な話題へわざと話をそらした。
いかに鄭重に守られ不自由なく暮していてもここは敵国の首府二夫人の心を思いやると、夢にもおびえ泣く嬰児のような弱々しさと、無碍に笑えない心地がして、関羽はあとでこう慰めた。

「長いこととは申しません。そのうちにかならず皇叔にご対面の日がまいるように、誓って関羽が計らいまする。それまでのご辛抱と思し召して、お二方とてただご自身のおからだを大事に遊ばしますように」
すると、内院の苑へ、いつのまにか曹操の侍臣が来ていた。関羽の帰り方があわただしかったし、二夫人の使いというので、曹操も猜疑をいだいて様子をうかがわせによこしたものである。関羽に見つかると、曹操の侍臣はすこし間が悪そうに、
「御用がおすみになったら、またすぐお越しくださるようにと、丞相はご酒宴のしたくをして、再度のお運びを、待っておられます」と、いった。
関羽はふたたび相府の官邸へもどって行った。酒をのんでも心から楽しめないし、曹操と会っている間も、故主玄徳を忘れ得ない彼であったが、
(いまここで彼の機嫌を損じては――)
と、胸にひとり忍辱のなみだをのんで、何事にも、唯々諾々と伏していた。
先刻とはべつな閣室に、花を飾り、美姫をめぐらし、善美な佳肴と、紅酒黄醸の瓶をそなえて、曹操は、彼を待っていた。
「やあ、御用はもうおすみか」
「中座して、失礼しました」
「きょうはひとつ、将軍と飲み明かしたいと思っていたのでな」
「冥加のいたりです」
さりげなく杯に向ったが曹操は、関羽の瞼に泣いたあとがあるのを見て意地わるくたずねた。
「将軍には、何故か、泣いてきたとみえるな。君も泣くことを初めて知った」
「あははは。見つかりましたか。それがしは実はまことに泣き虫なのです。二夫人が日夜、劉皇叔をしたわれてお嘆きあるため、実はいまも、貰い泣きをしてきたわけでござる」
つつまずにそういった関羽の大人的な態度に、曹操はまた、惚々見入っていたが、やがて酒も半ばたけなわの頃、戯れにまたこんなことを訊ねだした。
「君の髯は、実に長やかで美しいが、どれほどあるかね、長さは」
関羽の髯は有名だった。 長やかで美しい顎髯というので、この許都でも評判になっていた。
「おそらく都門随一の見事な髯だろう」と、いわれていた。
いま曹操から、その髯のことを訊かれると、関羽は、胸をおおうばかり垂れているその漆黒を握って悵然と、うそぶくように答えた。
「立てば髯のさきが半身を超えましょう。秋になると、万象と共に、数百根の古毛が自然にぬけ落ち、冬になると草木と共に毛艶が枯れるように覚えます。ですから極寒の時は、凍らさぬよう嚢でつつんでいますが、客に会う時は、嚢を解いて出ます」
「それほど大切にしておられるか。君が酔うと髯もみな酒で洗ったように麗しく見える」
「いやお恥かしい。髯ばかり美しくても、五体は碌々と徒食して、国家に奉じることもなく、故主兄弟の約にそむいて、むなしく敵国の酒に酔う。……こんな浅ましい身はあろうと思えませぬ」
なんの話が出ても、関羽はすぐ自身を責め、また玄徳を思慕してやまないのであった。そのたび曹操はすぐ話をそらすに努めながら、心のうちで、関羽の忠義に感じたり、反対に、ほろ苦い男の嫉妬や不快を味わいなどして、すこぶる複雑な心理に陥るのが常であった。
つぎの日。
朝に参内することがあって、曹操は関羽を誘い、そのついでに、錦の髯嚢を彼に贈った。帝は、関羽が、錦のふくろを胸にかけているので、怪しまれて、
「それは何か」と、ご下問された。
関羽は嚢を解いて、
「臣の髯があまりに長いので、丞相が嚢を賜うたのでござる」と、答えた。
人なみすぐれた大丈夫の腹をも過ぎる漆黒の長髯をながめられて、帝は微笑しながら、
「なるほど、美髯公よ」と、仰っしゃった。帝は漆黒の長髯を“美髯公よ”と
それ以来、殿上から聞きつたえて、諸人もみな、関羽のことを、
「美髯公。美髯公」と、呼び慣わした。

朝門を辞して帰る折、曹操はまた、彼がみすぼらしい痩馬を用いているのを見て、
「なぜもっと良い飼糧をやって、充分に馬を肥やさせないのか」と、武人のたしなみを咎めた。
「いや、何せい此方のからだが、かくの如く、長大なので、たいがいな馬では痩せおとろえてしまう
のです」
「なるほど、凡馬では、乗りつぶされてしまうわけか」
曹操は急に、侍臣をどこかへ走らせて、一頭の馬を、そこへ曳かせた。見ると、全身の毛は、炎のように赤く、眼は、二つの鑾鈴をはめこんだようだった。
「――美髯公、君はこの馬に見おぼえはないかね」
「うウーム……これは」
関羽は眼を奪われて、恍惚としていたが、やがて膝を打って、
「そうだ。呂布が乗っていた赤兎馬ではありませんか」
「そうだ。せっかく分捕った駿壮だが、くせ馬なので、誰ものりこなす者がない。――君の用い料に
は向かんかね?」
「えっ、これを下さるか」
関羽は再拝して、喜色をみなぎらした。彼がこんなに歓ぶのを見たのは曹操も初めてなので、
「十人の美人を贈っても、かつてうれしそうな顔ひとつしない君が、どうして、一匹の畜生をえて、そんなに歓喜するのかね」と、たずねた。
すると関羽は、
「こういう千里の駿足が手にあれば、一朝、故主玄徳のお行方が知れた場合、一日のあいだに飛んで行けますからそれを独り祝福しているのです」と、言下に答えた。悠々、赤兎馬にまたがって家路へ帰ってゆく関羽を――曹操はあと見送って、
「しまった……」と、唇を噛みしめていた。
どんな憂いも長く顔にとどめていない彼も、その日は終日ふさいでいた。
張遼は侍側の者から、その日の仔細を聞いて深く責任を感じた。 で、曹操にむかい、
「ひとつ、私が、親友として関羽に会い彼の本心を打診してみましょう」 と申しでた。
曹操の内諾を得て張遼は数日ののち関羽を訪ねた。 世間ばなしの末、彼はそろそろ探りを入れてみた。
「あなたを丞相に薦めたのはかくいう張遼であるが、もう近頃は都にも落着かれたであろうな」
すると関羽は答えて、
「君の友情、丞相の芳恩、共にふかく心に銘じてはおるが、心はつねに劉皇叔の上にあって、都には
ない。ここにいる関羽は、空蝉のようなものでござる」
「丞相の芳恩深く心に銘じておるが心は劉皇叔にある、関羽は空蝉さながらでござる」
「ははあ、……」と、張遼は、そういう関羽をしげしげ眺めて、
「大丈夫たる者は、およそ事の些末にとらわれず、大乗的に身を処さねばなりますまい。いま丞相は朝廷の第一臣、敗亡の故主を恋々とお慕いあるなど愚かではありませんか」
「丞相の高恩は、よく分っているが、それはみな、物を賜うかたちでしか現わされておらぬ。この関羽と、劉皇叔との誓いは、物ではなく、心と心のちぎりでござった」
「いや、それはあなたの曲解。曹丞相にも心情はある。いや士を愛するの心は、決して玄徳にも劣るものではない」
「しかし、劉皇叔とこなたとは、まだ一兵一槍もない貧窮のうちに結ばれ、百難を共にし、生死を誓ったあいだでござる。さりとて、丞相の恩義を無に思うも武人の心操がゆるさぬ。何がな、一朝の事でもある場合は身相応の働きをいたして、日ごろのご恩にこたえ、しかる後に、立ち去る考えでおりまする」
「では。……もし玄徳が、この世においでなき時は、どう召さる気か」
「――地の底までも、お慕い申してゆく所存でござる」
張遼はもうそれ以上、武人の鉄石心に対して、みだりな追及もできなかった。
門を辞して帰るさも、張遼はひとり煩悶した。
「丞相は主君、義において父に似る。関羽は心契の友、義において、兄弟のようなものだ。……兄弟の情にひかれて父を欺くとせば、不忠不義。ああどうしたものか」

しかし彼は、関羽の忠節を鑑としても、自分の主君に偽りは言えなかった。
「――行って参りました。四方山ばなしの末、いろいろ探ってみましたが、あくまで留まる容子は見えません。丞相の高恩は深くわきまえていますが、さりとて、心を翻して二君に仕えんなどとは、思いもよらぬ態に見えます」
歯に衣着せず、張遼はありのままを復命した。曹操もさすがに曹操であった。あえて怒る色もない。ただ長嘆していった。
「君ニ事エテソノ本もとヲ忘レズ。 関羽はまことに天下の義士だ。いつか去ろう! いつか回り去るであろう! ああ、ぜひもない」
「けれどまた、関羽はこうもいっておりました。何がな1朝の場合には、ひと働きしてご恩を報じ、そのうえで立ち去らんと……」
張遼がいうのを聞いて、かたわらから荀が、つぶやくように献言した。
「さもあろう、さもあろう。忠節の士はかならずまた仁者である。だからこの上は、関羽に功を立てさせないに限ります。功を立てないうちは、関羽もやむなく、許都に留まっておりましょう」(146話)

―次週へ続く―