「親しく鄭玄にお会いになって、袁紹への手紙をひとつ書いておもらいなさい。鄭玄が書簡をかけば、袁紹はきっとあなたに好意を示しましょう。袁紹の合力さえあれば、曹操とて、恐れるに足りません」
「なるほど。……御身の深謀は珍重にあたいするが、成功はしまい」
「なぜですか」
「思うてもみよ。わしはすでに袁紹の弟、袁術をこの地に滅ぼしているではないか」
「ですから、そこを鄭玄にとりなしてもらうのです。ともかく、世外の高士に、世俗の働きをさせるところが、この策の妙たるところなんです」
遂に彼を案内として、玄徳は、高士鄭玄の門をたたいた。鄭玄は快く会ってくれたのみならず、慇懃、膝下にひざまずいて志をのべる玄徳を見て、
「君のような仁者のために、計らずも世俗の用を久しぶりに論じるのは、老後の閑人にとって、むしろ時ならぬ快事じゃよ」と、さっそく筆をとって、細々と自分の意見をも加え、河北の袁紹へ宛て、一書をかいてくれた。
どうか小さな私怨などわすれて、劉玄徳に協力を与えて欲しい。青史は昭々、万代滅せず、今日の時運は歴々、大義大道の人に向いている。この際、劉玄徳を得るは、いよいよ袁家の大慶でもあることと信じ、自分も欣然この労をとった。
「これでよいかの」
鄭玄は自分の文を詩のように吟誦してから封をした。玄徳は押しいただいて門を辞した。驢をめぐらして城に帰ると、すぐ部下の孫乾を河北へ使いに立てた。
はるばる徐州の使い孫乾が、書簡をたずさえて、河北の府に来れりというので、袁紹は、日を期して謁見を与えた。
孫乾は、まず玄徳の親書を捧呈してから、
「願わくは、閣下の精練の兵武をもって、許都の曹賊を討平し、大きくは漢朝のため、小にはわが主玄徳のため、この際、平常のご抱負をのべ、奮勇一番、ご蹶起あらんことを」
と、再拝低頭、畏れ慎んで云いながらも、相手の腹中にはいって懇願した。

袁紹は一笑した。
「何かと思えば虫のよい玄徳の頼み。彼は先頃、わが弟の袁術を殺したではないか。いずれ弟の仇を思い知らしてやろうとは考えていたが、彼に助力を与えんなどとは、思ってみたこともない。何を戸惑うてこの袁紹に…あははは、使者にくる者もくる者。仮面でもつけて参ったか」
「閣下。そのお恨みは、曹操にこそ向けられるべきです。何事につけ廟堂の奸賊は、朝命をもって、みだりに命じ、そむけば違勅の罪を鳴らそうというのであります。わが主玄徳のごときも、まったく心なく淮南の役にさし向けられ、しかも功は問わず、非のみ責める曹操の非道に、遂に、堪忍をやぶって、今日わたくしを遠く使いせしめるに至ったものでございます。何とぞご賢慮をもって、這般のいきさつを深くご洞察ねがわしゅうぞんじます」
「おそらくそれは真実の言だろう。曹操なる者は、元来がそうした奸才に長けた人間だ。配するにお人よしの玄徳ときては、さもある筈。しかし玄徳は、一面、実直で信義に篤く、自然人望に富むという取柄もあるから、彼が心から悔いているなら救うてやらぬこともないが、一応、評議のうえ返答に及ぶであろう。数日、駅館にて休息しておるがよい」
「何分のおはからいを待ちおりまする。――ついては、べつにこの一通は、日ごろ主人玄徳を、子のごとく愛され、また、無二の信頼をおかけ下されている高士鄭玄より特に託されて参ったご書面にございまする。後にて、ご一見くだしおかれますように」と、その日は退がった。
後で、鄭玄の手紙を見てから、袁紹の心は大いに動いた。元々、彼としては、北支四州に満足はしていない。進んで中原に出で、曹操の勢力を一掃するの機会を常にうかがっているのである。弟の恨みよりも、玄徳を麾下に加えておいたほうが、将来の利であると考え直してきたのだった。
つぎの日。 台閣の講堂に諸大将は参集していた。
「曹操征伐の出軍、今を可とするか、今は非とするか」
について、議論は白熱し、謀士、軍師、諸大将、或いは一族、側近の者など、是非二派にわかれて、舌戦果てしもなかった。
河北随一の英傑といわれ、見識高明のきこえある田豊は「ここ年々の合戦つづきに、倉廩の貯えも、富めりとはいえないし、百姓の賦役も、まだ少しも軽くはなっておらない。まず、国内の患いを癒やし、辺境の兵馬を強め、河川には船を造らせ、武具糧草をつみ蓄えて、おもむろに機を待てば、かならず三年のうちに、自然、許都の内より内訌の兆しがあらわれよう。それまでは、朝廷に貢ぎをささげ、農政に務め、民を安んじ、ひたすら国力を養っておくべきである」と、述べた。
すると一名、すぐ起って、
「今のお説は、甚だしくわが意にかなわん。河北四州の精猛に、主公のご威武をいただき、何すれば、曹操ごときを、さまで怖れたもうか。兵法にいう、十囲五攻、すべて一歩の機と。今日のような変動の激しい時勢に、三年もじっと受身でいたらひとりでに国が富み栄えるなどとは、痴者の夢よりもまだ愚かしい。機なしとせば十年も機なし。活眼電瞬、今こそ、中原に出る絶好の秋ではないか」
と、大声で駁したてた。誰かとみれば、相貌端荘、魏郡の生れで、審配字を正南という大将だった。 すると、また一名 「いやいや、そのお説は、耳には勇ましく聞えるが、一国の浮沈を賭けて、自己の驕慢を満足させようとするようなもの。いわば大きな賭博を打つにも異ならぬ暴挙である」と起ち上がって審配の言に反対した大将がある。これを見れば、広平の人、沮授であった。

沮授はいう。
「義兵は勝ち、驕兵はかならず敗る。誰も知る戦の原則である。――曹操はいま許昌にあって、天下を制しているが、命はみな帝の御名を以てし、士卒は精練、彼自身は、機変妙勝の胆略を蔵している。故に、彼の出す法令には、誰も拒むことができない。しかるに――」
「待たれい」
審配は、奮然とまた起って、
「沮授どのには、曹操を讃美して、われらの説は、驕兵の沙汰といわるるのか」
「そうである!」
「何っ」
「敵を知らずして、敵に勝つことはできませんぞ」
「知るにあらず、尊公のはただ怖れるのだ」
「然り、自分は、曹操を怖れます。彼を、先に滅んだ公孫ごときものと同一視されると、とんだことになりますぞ」
「あははは」
審配は、満座へ向って、哄笑を発しながら、
「えらい恐曹病者もいるものだ。恐曹患者と議論は無益だ」
と、云いながら、側にいる郭図の顔を見た。
大将郭図は、日ごろから沮授と仲が悪いので、彼こそ自分の説を支持するだろうと思ったからである。
案の定、郭図は次に起立して、
「いま曹操を討つのを、誰が無名のいくさと誹りましょうぞ。武王の紂を討ち、越王の呉を仆す、すべて時あって、変に応じたものです。いたずらに安泰をねがって、世のうごきを拱手傍観していた国で、百年の基礎をさだめた例がありましょうか。――しかも、賢士鄭玄さえ、遠く書をわが君に送って、玄徳をたすけ、共に曹操を討つこそ、実に今日をおいてはあるべからずと云ってきているではありませんか。わが君には、何故のご猶予ですか。疾く無益な紛論をやめて、即刻、ご出兵の命こそ、臣ら一同の待つものでございます」と、郭図のことばは、その内容は浅いが、音吐朗々、態度が堂々としているので、一時、紛々の衆議を、声なくしてしまった。
「そうだ。鄭玄は一世の賢士である。彼が、この袁紹のために、わざわざ悪いことをすすめてくるはずはない」
遂に、袁紹も意をきめて、一方の出軍説を採ることになった。郭図、審配などの強硬派は、凱歌をあげて退出し、反対した田豊や沮授の輩も、
「このうえは是非もない」と、黙々、議堂から溢れて、やがて出征の命を待った。

許都へ! 中原へ!
十万の大軍は編制された。
審配、逢紀のふたりを総大将に。田豊、荀?、許攸を参軍の謀士に。また顔良、文醜の二雄を先鋒の両翼に。 騎馬兵二万、歩兵八万、そのほかおびただしい輜重や機械化兵団まで備わっていた。
河北の地に、空もおおうばかりな兵塵のあがり出した頃、玄徳の使い孫乾は、
「得たり! わが君のご武運はまだつきない」
と、鞭を高く、徐州へさして、急ぎ帰っていた。
ふところには「援助の儀承諾」の旨を直書した袁紹の返簡を持っている。
時に、用いかた如何に依っては閑人の一書といえども、馬鹿にできない働きをする。高士鄭玄の一便は、かくて、河北の兵十万を、曹操へ向わしめたのであった。(128話)

―次週へ続く―