「張飛。――欠伸か」 「ムム、関羽か。毎日、することもないからな」
「また、飲んだのだろう」 「いや、飲まん飲まん」 「夏が近いな、もう……」
「梅の実も大きくなってきた。しかし一体、うちの大将は、どうしたものだろう」
「うちの大将とは」 「兄貴さ」
「この都にいるうちは少し言葉をつつしめ。ご主君をさして、兄貴だの、うちの大将だのと」
「なぜ悪い。義兄弟の仲で」
「貴様はそう心易くいうが、朝廷では皇叔、外にあっては、左将軍劉予州ともあるお方だ。むかしの口癖はよせ。わが主君の威厳を、わが口で落すようなものだ」
「そうか。……なるほど」「何をつまらなそうな顔しておるんだ」

「何をってその左将軍たるものが、ここのところ毎日、何をやっているか知っているか? 貴様は」
「知っている」
「陽気のせいで、すこし頭が悪くなったんじゃないかとおれは真面目に心配しておるのだ」
「誰のことを」 「だからよ。わが主君たる人の行いをさ」
「どうして?」 「どうしてだと。まあ立話ではできん。かりそめにも、ご主君の噂だから」
「すぐしッぺ返しをしおる。貴様ほど意地ッ張りなやつはないな」
苦笑しながら、関羽も並んで腰かけた。 彼方に、たくさんの馬を繋いでいる厩舎が見える。
ここは下僕部屋のある邸内の空地だ。 桃の花が散ってくる。
詩は感じないでも、桃の花をみると二人は楼桑村の桃園を憶いおこす。
張飛は、最前から独りでつまらなそうに樹の下に腰かけて頬杖つきながら、それを眺めていたところだった。「なんだ一体、ご主君の行いについて、貴様の不平とは?」
「この頃、玄徳様には邸内の畑へ出て、百姓のまね事ばかりしているではないか。菜園へ出るもよいが、自分で水を担ったり、肥料をやったり、鍬をもって、菜や人参を掘りちらさないでもよかろうじゃないか」「そのことか」
「百姓がしたいなら、楼桑村へ帰りゃあいい。何も都に第宅を構え左将軍なんていう官職はいるまい。肥桶をかつぐに、われわれ兵隊などもいらんわけだ」
「きさま、そういうな」
「だから、おれは、これは天候のせいかも知れないと、憂いているんだ。どう思う、兄貴は」
「君子のことばに、晴耕雨読ということがある。雨の日にはよく書物に親しんでおられるから、君子の生活を実践しておられるものだとおれは思うが」
「困るよ、今から隠者になられては。――そもそもわれわれは、これから大いに世に出て為すあらんとしている者ではないか」 「もちろん」 「よしてくれ! 君子の真似なんか!」
「おれにいっても仕方がない」 「きょうも畑に出ているようか」
「やっておられるらしい」 「二人して、意見しに行こうじゃないか」 「さあ?」
「何をためらうか。貴様はたった今、主君の威厳にさわるとか、おれをたしなめたではないか。おれには何でもいえるが、主君の前へ出ては、何もいえないのか」 「ばかをいえ」
「では行こう、ついて来い。忠義の行いでいちばん難しいことは、上に善言して上より死を賜うも恨まずということだぞ」

ぼくっ、ぼくっ、と鍬を打つ。土のにおいが面にせまる。
玄徳は、野良着の肱で、額の汗をこすった。
「…………」
黙然と、鍬を杖に、初夏の陽を仰いでいる。一息して、鍬をすてると、彼は糞土の桶を担って、いま掘りかえした菜根の土へ、こやしを施していった。
「わが君! 冗談ではありませんぞ。この時勢に、そんな小人の業を学んでどうするのですっ。馬鹿馬鹿しい」うしろで張飛の大声がした。
玄徳はふり向いて、
「おお、何用か」
ことばだけは、左将軍劉備らしい。それだけに、張飛はなお馬鹿げた気がしてならない。が、由来彼は弁舌の士でなかった。乱暴な口ならいくらもたたくが、主君に忠諫などは、得手でない限りである。
「関羽、云ってくれ」そっと突っつくと、
「なんだ、貴様がおれの手をひッぱってきたくせに」
「おれは、後でいうから」
「家兄。――きょうはそう呼ぶことをおゆるし下さい」関羽は畑にひざまずいた。
「なんじゃ改まって」
「われわれ愚鈍な者にはちと解し難く思われてなりませんので、ご意中を伺いに参った次第で」
云いかけると、張飛は、「手ぬるい手ぬるい。そんな云い方ではだめだ。面を冒して直諫してこそ、忠臣のことばというものじゃないか」と、小声でけしかけた。
「うるさい、黙っておれ――」と側の張飛を叱って、関羽はまた、
「さだめし、何か深いお考えのあることとは存じますが、ここ二月も毎日菜園へ出られ、黙々、百姓の真似事ばかりなされておいでになりますが、なぜ、ご自身で糞土を担がなければなりませんか。――お体のためとあらば、弓馬の鍛錬をあそばしていただきたいものと思いますが」
「そうだ!」と、張飛はその図にのって、
「今から君子や隠者の生活でもありますまい。百姓をやるなら何もわれわれ桃園に血をすすり合って、こんなとこまで、旗をかついで来なくともよかったんだ。あなたの料簡がわれわれには分りかねる」
玄徳は、笑みをふくんだまま、黙って聞いていたが、
「汝らの知るところではない。分らなければ、黙って、そち達はそち達の勤めをしておれ」
「そうはいかない」 張飛は喰ってかかった。
「三人の血はひとつだ。三人は一心同体だと、家兄も常にいっておるのではないか。われわれという手脚が、明け暮れ弓矢をみがいていても、肩が糞土をかついでいたり、頭が百姓になっていたんでは、一心同体とは申されまい」
「いや、参った」 玄徳はかるく笑い流して、「そのとおりである。――が、今にわかる時節もある。ふかい考えがあってのこと。心配するな」と、なだめた。
そういわれると何もいえない。やはり曹操を謀るためかもしれぬ。よく考えてみると、玄徳の日課は、董承と密会した以後から始まっている。
思い直して二人はなお、毎日の退屈を、なぐさめ合っていた。ところが、それから数日の後、連れ立って外出したが邸へ帰ってみると、毎日姿の見える菜園にも奥にも玄徳が見えなかった。
「ご主君は、どこへ行かれたか」 張飛、関羽は、眼のいろ変えて、留守の家臣にたずねた。
「相府へお出ましになりました」「えっ、曹操の召しでか」
「はい、曹丞相が何やら急に、お迎えを向けられたので」
聞くと、ふたりは呆然顔を見あわせて、
「しまった……。われわれが居れば、是が非でも、お供について行かれたものを」
思いあたることがある。日ごろ沈着な関羽さえ、気もそぞろに、玄徳の身を案じた。
「迎えには、誰と誰が来たか」
「曹操の腹心、許、張遼のおふたりが、車をもって参りました」 「いよいよ怪しい」
「兄貴、考えている場合ではない。後からでも構うまい。もし門を通さぬとあれば、ぶち壊して押し通るまでだ」「おお、急げ」二人は宙を飛んで許都の大路を丞相府のほうへ駈けて行った。
それより数時前に。玄徳は曹操からふいの迎えをうけて、心には、何事かと、危ぶまれたが、使いの許?、張遼にたずねてみても、
「御用のほどは何事か、われらには、わきまえ知るよし候わず」と、にべもない返辞。
といって断る術もなく彼は心中、薄氷を踏むような思いを抱きながら、相府の門をくぐった。
導かれたところは、庁ではなく曹操の第宅につづく南苑の閣だった。
「やあ、しばらく」 曹操は待っていた。
痩躯長面、いつも鳳眼きらりとかがやいて、近ごろの曹操は、威容気品ふたつながら相貌にそなわってきた風が見える。「つい、ここ二月ほど、ご無沙汰にすぎました。いつもお健やかで」
玄徳もさりげなく会釈すると、曹操は、その面をじろじろ見ながら、
「健康といえば、たいそう君は陽にやけたな。聞けば近頃は、菜園に出て、百姓ばかりしているというが、百姓仕事というのは、そんな楽しみなものかね」
「実に楽しいものです」 心のうちで、玄徳は、まずこの分ならと幾らか胸をなでていた。
「――丞相の政令がよく行きわたっていますから、世は無事です。故に、閑を忘れるため、後園で畑を耕していますが、費えもかからず、体にもよく、晩飯はおいしくたべられます」
「なるほど、金はかかるまいな。君は欲なしかと思うたら、蓄財の趣味はあるとみえる」
「これは、痛烈なお戯れを」玄徳はわざと、辱らうようにうつ向いた。

「いや、冗談冗談。気にかけ給うな。――実はきょう、君を迎えたのは、この相府の梅園に、梅の実の結んだのを見て、ふと先年、張繍征伐に出向いた行軍の途中を思い起したのだ。炎暑に渇ききって、水もなく苦しみ弱る兵らに向い、この先へ行けば、小梅の熟したる梅林があるぞ。そこまで急げや――と詐って進むほどに、兵は皆、口中に唾のわくを覚え、遂に、渇をわすれて長途の夏を行軍したことがある」
曹操は、その話しが、自慢らしい。そう語って、
「――で、急に君と、その小梅の実を煮て賞翫しながら、一酌くみ交わしたいものと思い出したわけなんだ。まあ来たまえ。梅林を逍遥しながら、設けの宴席へ、予が案内するから」
曹操は、先に立って、はや広い梅園の道を歩いていた。
「ほ……。これは宏大な梅林ですな」
曹操の案内に従って、玄徳も遠方此方、逍遥しながら、嘆服の声を放った。
「劉予州。――君はここを見るのは、初めてかね」
「南苑のご門内に通ったのは、今日が初めてです」
「それなら、花の頃にも、案内すればよかったな」
「丞相おんみずからご案内に立たれるだけでも、恐懼の極みであります」
「酒席の小亭は、まだ彼方の梅渓をめぐって、向う側にある眺めのよい場所だよ」
――と、俄に。
ばらばらっと頭上へも大地へも降り落ちてきた物がある。みな青梅の実であった。
「……オオ!」
とたんに樹々の嫩葉も梢もびゅうびゅうと鳴って、一点暗黒となったかと思うまに、一柱の巻雲が、はるか彼方の山陰をかすめて立ち昇った。
「――龍だ、龍だ」「あれよ、龍が昇天した」
そこらを馳けてゆく召使いの童子や家臣が、口々に風のなかで云っていた。――そして一瞬、掃いてゆくような白雨が、さあっと迅い雨脚でかけぬけた。
「すぐやもう」
曹操と玄徳は、樹蔭に雨やどりして、雨の過ぎるのを待っていた。
そのあいだに、曹操は、玄徳へこんなことを話しかけた。
「君は、宇宙の道理と変化を、ご存じか」 「いまだわきまえません」
「龍というものがよくそれを説明している。龍は、時には大に、時には小に、大なるは霧を吐き、雲をおこし、江をひるがえし、海を捲く。――また小なれば、頭を埋め、爪をひそめ、深淵にさざ波さえ立てぬ。その昇るや、大宇宙を飛揚し、そのひそむや、百年淵のそこにもいる。――が、性の本来は、陽物だから時しも春更けて、今ごろとなれば大いにうごく。龍起れば九天といい、人興って志気と時運を得れば、四海に縦横するという」
「実在す...