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五胡十六国時代の人物の覚え書き 当ブログでは正史の他に資治通鑑等の文献に登場する人物の記述を少しずつ集めていくことを目指しています…※訳は素人によるもので、解釈の誤り等が含まれる可能性があります

記事一覧を表示する   
  王 康     
2019-04-20 09:30:22


王 康王康は関中に留まっており、高祖の北伐にあたって鎮悪が前鋒となると身を隠していた。鎮悪が潼関まで来たところで康は家族を連れてこれに赴き、高祖は彭城公前将軍行参軍とした。鎮悪が殺害された際に康は逃げ隠れて死を免れ、家族を連れて洛陽へ出ると彭城に至って高祖に帰した。即座に相国行参軍とされた。願い出て洛陽へ行って母と会っていたところで関・陝が敗れると、康は長安からの徙民である張?醜や劉雲らと義徒を集めると百余人を集めて金?城を保って防戦の支度を整えた。このとき邵平というものがあって部曲及び并州の乞活一千余戸を率いて城南に屯し、亡命者の司馬文栄を迎えて主としていた。また、亡命者の司馬道恭が東垣から三千人を率いて来て城西に屯し、別の亡命者司馬順明は五千人をもって陵雲台に屯していた。順明が刺客を遣わして文栄を殺すと、平はまた順明を主とした。また、司馬楚之が柏谷塢に屯し索虜の野坂戍主である黒?公は遊騎をもって芒上にあって代... [続きを読む]
 
  薛 帛     
2019-04-20 08:30:27


薛 帛(せつ はく)後秦建威将軍・河北太守(*1)。晋の劉裕の攻撃を受けた際に沈林子に襄邑堡を攻略され、河東へ奔った。(*1)王仲犖の北周地理志に「太平寰宇記に『今の?城県の北五里に魏城があって畢萬が封ぜられたところであり、漢はその地を河北県として河東郡に属させた。姚秦がここに河北郡を置く』とあり」とある。のち河曲に拠って叛いた。 [続きを読む]
 
  朱 ?     
2019-04-20 08:00:46


朱 ?(しゅ りょう)後秦西魏朱欣墓誌によれば、後秦の尚書郎となり忠義により称されたという。 [続きを読む]
 
  慕容 翰5     
2019-04-19 21:30:07


慕容 翰その後、?は自ら逸豆帰を伐ち、翰を前鋒とした。帰は渉夜干を遣わし、兵を率いて迎撃させた。?は人をやって翰に「渉夜干の勇は三軍に冠たるものだ。これを避けるがよかろう」と言わせたが、翰は「帰の精鋭はことごとくここにおり、今もしこれに勝てば帰を兵を使わずして滅ぼすことが出来ます。夜干は虚名はあれども実のところはくみし易いものです。敵を放って兵気を挫くのは宜しくありません」と言うと進んで戦い、これを斬った。翰は流矢にあたって長らく療養していたが、ようやく快方に向かったので、家で騎乗を試してみた。ある人が「翰は病気だと称しておきながら、騎乗をしておりました。よからぬことをなさんとしているのではないでしょうか」と密告すると、?は翰の力を借りていながらもその勇略を忌んでいたことからとうとう死を賜った。翰は死に臨んで使者に「この翰はかつて疑念を抱いて出奔し、その罪は誅殺を免れぬものだった。賊のもとで命を終えることができな... [続きを読む]
 
  慕容 翰4     
2019-04-18 21:30:17


慕容 翰あるとき翰は?に向かって「宇文は強盛となって久しく、しばしば国患をなしております。今逸豆帰は簒奪によってその国を手に入れ、人々はこれに心服しておりません。しかも凡庸な性質で将帥はその才にあらず、国に防衛なく軍に部伍はありません。臣は久しくその国にいて、その地形を諳んじております。遠く彊羯が附くといえども、連絡が取れておらずして救援の益はありません。今もしこれを撃てば、百戦して百勝するでしょう。また、j高句麗は常々こちらを計ろうという意志を抱いておりますが、宇文が滅びたことを知れば禍が自らに及ぶことから、必ずや虚に乗じてわが不備に乗じて深く攻め入ろうとするでしょう。もし少々の兵を留めれば守るには不十分であり、多くの兵を留めれば出兵を成功させるに足りないでしょう。これこそ心腹の患とでも言うべきものであり、まずこれを除くべきでしょう。その勢力を観るに、一挙にして勝つことが出来るでしょう。宇文は守りを固めるだけで... [続きを読む]
 
  慕容 翰3     
2019-04-17 21:30:16


慕容 翰宇文逸豆帰は翰の才能・威名を忌んだので、翰は発狂したふりをして酒びたりになっては寝転がったまま排泄をしたり、髪をざんばらにしたまま歌を歌ったり、排跪しては食を乞うたりした。宇文では国を挙げてこれを卑しみ、気にかけなくなった。そこであちこちの地勢を見てまわり、これをことごとく暗記した。このとき?は、翰がもともと叛乱を起こしたのではなく嫌疑により他国に出奔したものであり、おりに触れては燕のために計をなしていることから、商人の王車なる者を宇文部へ商行させて密かに翰に会わせた。翰は車と面会しても言葉を発することなく、ただ胸を撫でては頷くばかりだった。車は帰国すると?に向かって「翰は帰国を望んでおりますぞ」と言ったので、?は車にこれを迎えさせることとした。翰は三石余の強弓を用いて矢は非常に長かったが、?は手ずからこれを作ってから車に命じて道中の道ばたに埋めさせた。そうしてこのことを密かに告げると、翰は逸豆帰の名馬を... [続きを読む]
 
  慕容 翰2     
2019-04-16 21:30:34


慕容 翰その後石虎が遼を征すると、?は自ら三軍を率いて令支以北の諸城を攻掠した。遼がこれを追撃すべしと言ったところ、翰は?が自ら兵を率いて戦えば必ず勝つことから「今、趙の兵が南方から迫っており、これこそが大敵です。力を併せてこれを防ぐべきであり、燕と戦うというのは宜しくありません。燕王が自ら率いている士馬は精鋭であります。また、兵というものは凶器であり、万一利を失うようなことがあれば、どうして南の敵を防ぐことができましょうか」と言った。蘭は怒って「わしは以前そなたの申すでたらめを聞いたがために、今日の患をなしてしまったのだ。わしはもうそなたの計に陥ることはないぞ」と言うと、衆をことごとく引いて追跡にかかった。?は伏兵を設けて蘭がやって来るのを待ちうけ、果たしてこれを大破した。翰が敵国に身を置きながらも本国に忠を尽くしたことは、皆このようなものだった。蘭は敗れて逃げ帰ると、もう出戦しようとしなかった。遼は遂に妻子宗... [続きを読む]
 
  慕容 翰1     
2019-04-15 21:30:46


慕容 翰慕容翰は字を元?といい、?の庶長子である。雄豪なる性格で権略が多く、猿臂にして射術をよくし、膂力は人並はずれていた。?はこれを奇とし、折衝の任を委ねた。征伐に行けばしばしば戦功を立ててその威名はとどろき、遠近ともにこれを憚った。建威将軍となって遼東に鎮すると、高句麗は侵犯しようとしなかった。翰は人心をよく掴み、儒学を愛好して士大夫から卒伍に至るまでこれに従うことを喜んだ。?に深く忌まれ、?が死ぬと翰は「わしは先公から命を受ければ力を尽くさぬことなく、幸いにも先祖の霊のおかげで向かうところ功なきことがなかった。これは天がわが国を助けたのであって、人力ではない。わしが雄才なるをもって制御し難くなると言われているが、どうして坐して禍が身に及ぶのを待つことがあろうか」と言うと子を連れて段遼のもとへ出奔した。遼は以前からその才を聞いていたことから、その力を用いたいと考えて礼遇した。柳城の戦いにおいて段蘭は勝利に乗じ... [続きを読む]
 
  「魏故使持節都督恒州諸軍事前將軍恒州刺史韓使君墓誌」より     
2019-04-14 22:00:25


先日ネット上に公開されていた北魏の時代の墓誌に目を通していたところ、気になるものが出てきました。それは北魏の韓震なる人物のものですが、”曽祖父業は字を世隆といい、太尉屬匡の子…祖達は字を大度といい、上黨府君業の子…”とありました。この達については妻が玄氏令慕容干の娘とあり、燕の慕容氏との関連性が考えられます。韓業という人名に何となく見覚えがありましたが、心当たりをあたってみたところ晋書馮跋載記に附記されていた馮素弗の伝に同じ名が見えていました。”(素弗が)若い頃慕容煕の尚書左丞である韓業のもとへ赴いてその娘を妻に貰い受けたいと請うたところ、業は怒ってこれを拒んだ””(立身した後に)あるとき韓業に向かって「君はかつて私を顧みることがなかったが、今このようになってどうかね?」と問いかけた。業がこれを拝して謝罪したところ、素弗は「昔のことだ。どうしてそのことによって君に含むところがあろうか」と言ってこれを手厚く遇した”... [続きを読む]
 
  五胡十六国時代の怪異譚330     
2019-04-14 08:30:30


呂光の承康元年のこと、幽鬼の類いがその都に現れると「兄弟が互いを滅ばし、民衆は疲弊するであろう」と声を上げた。 官吏がこれを捜索したが、どこにもその姿は見つからなかった。 その年に光が死んで子の紹が立ったが、五日して紹の庶兄である纂が紹を殺して自立した。 [続きを読む]
 
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